ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑
〔第2回〕
梶井基次郎/百田宗治
■洋食を好むグルメだった梶井基次郎
梶井基次郎といえば、青春小説の名作「檸檬」が有名だ。だが、発表した当時はまったく売れなかった。
梶井の作家活動は7年ほどで、しかも作品を発表した媒体のほとんどが同人誌ということもあって、あまり注目されなかった。
「檸檬」は、東京帝国大学英文科に合格した翌年の大正14年に中谷孝雄、外村繁、小林馨(かおる)ら6人で創刊した同人雑誌「青空」に発表された。「檸檬」が世間に注目され評価され始めたのは、昭和6年に刊行された短編集に収められてからである。
しかし中学時代に感染した結核性胸膜炎により、昭和7年3月、31歳でこの世を去る。梶井は死を目前にして、看病する母と交わした会話を「のんきな患者」という作品にして発表している。
生前の梶井は、グルメとしても知られていた。友人らと喫茶店に入ったときは、レモンティーやレモンを浮かべたプレーン・ティーを好んだという。病気静養中も、昼間からカツレツや刺身などを食べ歩き、バターは小岩井農場、紅茶はリプトンのグリーン缶などブランドにもこだわっていたという。
●梶井基次郎文学碑:アクセス/地下鉄御堂筋線・中央線・四つ橋線のいずれかで本町駅下車28番出口、靱公園内(なにわ筋「靱交番前」交差点すぐ)
■民衆派詩人としての名声が高い百田宗治(ももたそうじ)
明治26年1月25日、大阪市西区新町通1丁目(現、新町1丁目)に生まれる。
詩を書き始めたのは明治44年頃というから、多感な青年期を過ごしていた18歳の頃である。大正4年に、はじめて「百田宗治」の名で詩集「最初の一人」を刊行。次いで個人雑誌「表現」を創刊している。
この頃から人道主義、民主主義の傾向が強くなり、大正5年に出版した詩集「一人と全体」で民衆派詩人としての名声が高まった。しかし大正14年に刊行された「静かなる時」では内省的で穏健的な作風に変わりはじめ、翌15年に三好達治、丸山薫、北川冬彦らと創刊した「椎の木」では、日本的で俳句的な味わいの作風となっている。
昭和7年頃から全国の小学校教師と連携して、波多野完治や滑川道夫らとともに綴方運動に加わり、これが生涯のライフワークとなった。
死後30年を経た昭和61年、「にれの町」(金の星社・絵/小野州一)が第33回産経児童出版文化賞美術賞を受賞している。
●アクセス:百田宗治文学碑/地下鉄四つ橋線四ツ橋駅2番出口または長堀鶴見緑地線西大橋駅2番出口から徒歩3分、新町北公園内
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