ぶらり関西みて歩記(あるき)
枚方宿
〔最終回〕
大阪は右へ、京は左。「宗左の辻」の道標。
枚方宿本陣跡から、京街道を北へ向かって歩く。
現代的な街並みと往時をしのばせる街並みが混ぜこぜになった景色を見ながらぶらぶら歩いて行くと、石造りの古い灯篭(常夜灯)が見えてくる。標石には「旧三矢村と岡村の村境」と記されていて、本体には「妙見宮」「他力」の文字が見える。
「他力」とは、仏(菩薩)の力を意味する。「他力本願」という言葉が「自分では何もしないで他人任せにすること」という意味で使われているが、本来の意味は「仏の力で浄土往生すること」の意味だそうだ。
ひとつ賢くなったところで、話を灯篭に戻そう。街灯も電気も無い時代は、日が暮れてしまうと頼りは月明かりと星明りだけ。ろうそくに提灯は、庶民には贅沢だったという。もちろん常夜灯も、明るさは現代の街灯と比べものにならない。しかも月には満ち欠けがある。新月の夜はまったくの闇だったはず。暗い夜道をほんのり照らす常夜灯は、そこに灯りがあるだけで、夜道を歩く人に安心感を与えたことだろう。
さらに歩いて行くと、しだいに京阪電車「枚方市」駅に近づく。駅に近づくにつれて飲食店やショッピングモールが軒を連ね、賑やかさが増してくる。
信号を渡ってまっすぐ歩くと十字路があって、そこには文政9年(1826)に立てられたという古ぼけた道標が立っている。この十字路を「宗左(そうざ)の辻」と呼ぶ。江戸時代に製油業を営む角野宗左の邸宅があったことに由来し、枚方宿の遊女たちに謡われた俗謡にも出てくる名所だ。
《送りましょうか送られましょか せめて宗左の辻までも》
この唄が謡われていた当時、遊女たちがここまで客を送ってきて、別れを惜しむ姿がしばしば見られた。
「宗左の辻」は、街道が分岐・合流する地点でもあった。京街道と磐船街道の分岐点にあたり、道標の東側に「大坂みち」、北側に「右くらじたき是四十三丁」「左京六リ、やわた二り」と刻まれている。メートル法に換算すると、京まで約24キロメートル、八幡まで約8キロメートルか。参考までに道路地図を開いてみたら、だいたいそれくらいの距離だろうなという感じだった。
京都から熊野への参詣道として知られる東高野海道が、四条畷で分岐している(注1)。その道は清滝峠を越えて、この宗左の辻へ至り、さらにその先、天野川と竜田川を経て奈良県斑鳩町竜田まで続く「清滝(きよたき)街道」となる。
(注1)東高野街道と「交差する」と記述されている文献もある。