ぶらり関西みて歩記(あるき)
枚方宿
〔第2回〕
シーボルトも訪れたかもしれない船宿「鍵屋」と淀川水運の要衝「郵便屋の渡し跡」
江戸時代全期を通じて、参勤交代の大名行列や商人をはじめ、多くの旅人が枚方宿を通行した。その中には、外国人の姿もあった。
江戸初期にオランダ商館付の医師として来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペル、江戸中期頃に朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日した申維翰(シン・イカン)、幕末にはイギリス駐日公使館の通訳として来日したアーネスト・サトウやシーボルトといった、幕末史ではお馴染みの人物もいる。
彼らはみな帰国後、日本に関する著作を残している。とくにシーボルトは、枚方宿の風景に祖国の風景を重ね合わせて懐かしんでいたようだ。
京阪電車「枚方公園駅」をひらかたパークの反対側へ降りて、正面の道を淀川へ向かってまっすぐ歩く。
淀川の河川敷にある公園へわたる信号の横に、白壁に囲まれた石碑がある。これが「郵便屋の渡し跡」で、橋が無かった時代に対岸の摂津の国へ渡る唯一の交通手段が渡し船(枚方の渡し・大塚の渡し)であったことが碑文に刻まれている。それによると、実際の渡し場は、石碑から上流へ約570メートルの場所にあったらしい。何故その場所につくらなかったのだろうか? 用地を確保できなかったのかもしれないと、勝手に想像してみた。
明治10年、対岸に鉄道が開通すると水運は急速に衰退したが、満足な橋はまだ無い。淀川を渡るにはどうしても船が必要だったため、枚方側の郵便物を渡し船で対岸まで運び、そこから国鉄・高槻駅まで運んだという。
渡し船による郵便輸送は、昭和5年に枚方大橋ができるまで続けられた。渡し船は姿を消したが、今でも淀川にかかる橋の数は、他の河川と比べると少ないような気がする。大都会大阪都周辺の地域を行き来するには、もっと多くの橋があるほうが便利だろうと思うのだが――。
それはさておき、郵便屋の渡し跡の近くには、淀川が水運で栄えた時代を偲ばせる建物が今もある。堤町にある「鍵屋」は、天正年間(1573~92年)創業の船宿だ。現在の建物は18世紀末から19世紀初頭の建築だといわれている。街道と淀川が最も接近する場所にあり、街道側に玄関が開き、裏口は船の乗降に便利なように淀川に接していた。
元号が明治に改まる直前の慶応4年3月、明治天皇に随伴した岩倉具視が、この鍵屋で休憩した。このことから脇本陣に準ずる扱いを受けたといわれる。
淀川の水運と渡し船が姿を消しても料亭として営業していたが、平成9年に廃業。同年、枚方市指定文化財に指定され、平成13年から「市立枚方宿・鍵屋資料館」として公開されている。
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