フリーライターはビジネス書を読まない(55)
最後の抵抗?
織田は同じ覚書を3通つくっていた。そのうち2通を私と北原の前において、主に北原に向かって内容の説明を始めた。
・北原裕美は当初約束した原稿料○○万円を毎月1万円の分割で支払うこと。
・出版社は北原裕美と交わした出版契約を無効とする。
・出版社は北原裕美に対し一切の債権を有しない。
・北原裕美はこの覚書を誠実に履行すること。
以上が主な内容だった。
「ひらたくいうと、弊社への支払いは発生していませんが、平藤さんはすでに原稿を書いてますから、その分は支払ってくださいねという内容です。異論ありませんか」
織田が北原に問う。
「はい、異論ありません」
北原が頷く。
「では、ここに署名と捺印をお願いします」
出版社と私の署名と捺印は、すでに入れてあった。
北原が最後にハンコを押すのを見届けると、織田は「仕事がありますので」といって、会社へ戻っていった。なんと3人分の精算まで済ませて。
あれは経費で落ちないだろう。織田の自腹だ。つくづく申し訳ないと思った。
店には私と北原が残った。
「それじゃ、来月からお願いしますね」
そういい残して私も店を出ようと腰を浮かしかけたとき、北原がボソッと何かいった。
「え? なんですか?」
北原の顔には、ふてくされたような表情が浮かんでいた。
「忘れるかもしれません」
「忘れる? 何を?」
「毎月1万円……」
「いま覚書を交わしたところじゃないですか」
思わず声が大きくなった。周りの視線が一斉に集まる。傍目には、カネのことで揉めているカップルに見えているかもしれない。
「保護費は毎月3日に振り込まれますよね。その日あなたは、ATMで残高照会をするはずだ。そのとき、ついでにこっちの口座へ振り込む手続きをするだけ。忘れるわけないですよ」
「いや……そうじゃなくて、平藤さんの口座番号を書いたメモをなくすかも」
(この期に及んで逃げるつもりか)
「メモをなくしても、覚書に書いてあります」
まだ北原の前に置いたままになっている書面を指さした。
「私、よく物をなくすんです」
「だから?」
「覚書もなくすかも。それに私、免責受けてるしぃ」
頭がクラクラしてきた。北原が最後の抵抗を試みて、私が「じゃあ、もういいわ」と言い出すのを期待しているのか。
こっちも生活がかかっている。ここで逃げられてはたまらない。
「この前もいいましたよね。自己破産して免責を受けたことは、妹さんから聞いてます。でも、そのあと新たにつくった借金は、免責の対象じゃないんですよ」
「……」
北原は言葉に詰まったものの、頭の中でまだ何か口実を探しているようだった。
「んん……、じゃあ、こうしましょう。保護費が出るころに、私のほうから口座番号を書いてハガキを送ります。メモと覚書をなくしても、そのハガキで振込先がわかるでしょう」
我ながらご親切なことだと思ったが、逃がすわけにはいかないのだ。
さすがにそれ以上の抵抗は無駄と悟ったか、別の逃げ道を探すつもりか、北原はひとまず私の案を了承した。
もっとも私は、それ以降2年以上にわたってハガキを毎月、北原へ送り続ける手間を強いられる羽目になってしまった。
(つづく)
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