ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂
〔第2回〕
源聖寺坂
■市電の敷石を石畳に転用
名の由来は、坂の上り口にある源聖寺である。天王寺七坂の名は付近にある寺院に由来するパターンが多い。
149メートルある源聖寺坂は2つの町にまたがっていて、西側(坂の下)が天王寺区下寺町1丁目、東側(坂の上)が同じく生玉寺町となっている。
上り方向から見ると、始めはなだらかな石畳になっており、途中から石段に変わってやや東南東に向きを変える。そのため下り方向を眺めると、変化に富む景色を楽しめる。ちなみに上り口から10メートルほどの石畳には、かつて大阪市内を走っていた市電の敷石が流用されている。交通量の増加に伴って市電は昭和44年に姿を消したが、その遺産ともいうべき敷石がこうして活かされているのである。
真言坂の周辺は真言宗の寺院ばかりだったのに対し、源聖寺坂の周辺はほとんどが浄土宗の寺院である。
付近一帯に多くの寺院が軒を連ねているのは理由がある。大坂夏の陣のあと摂津大坂藩主となった松平忠明が、都市計画と軍事目的の一環として寺院を集めたため、今も多くの寺院が残っているのだ。
坂の途中にある銀山寺には近松門左衛門の「心中宵庚申」に登場するお千代・半兵衛の比翼塚、源聖寺の南2軒となりには新選組の大阪旅宿跡として知られる萬福寺など、歴史スポットも点在する。
石段を上り切った場所には昭和の末期まで「源九郎稲荷」があって、コンニャクが好きな狸が祀られていた。天王寺区史に「こんにゃくの八兵衛」という祠があったと記されているのだが、どこへ移されたのか、今では所在が分からなくなっている。昭和の末期といえば今から30余年前のこと。
そんなに大昔ではないのに、当時のことを記憶している人すらいないのだろうか。一説によると生國魂神社に還座されたと記した資料があるとされるが、一方で同名の末社とは無関係とする記述もあって謎は深まるばかりだ。
■光を放って帰ってきたご本尊
第七世浄誉上人(じょうよしょうにん)によって書かれたとされる源聖寺縁起によると、源聖寺は慶長元年12月に深蓮社遠誉上人荷公和尚(じんれんじゃおんよしょうにんかこうかしょう)により創建され、後に江戸幕府の都市計画に伴い、現在地に移転した。
ご本尊の阿弥陀如来仏像は、安阿弥作と伝えられる2尺5寸の立像である。このご本尊に関して「源聖寺縁起」にこのような逸話が記されている。
大坂冬の陣の折、遠誉上人が戦火を避けて海に流したが、後に光を放って海辺に戻ってきたという。
「波に押し戻されてきただけではないの?」と現実論をいってしまったら身も蓋もない。未知の力と意思によって自ら戻られたと信じたい。
本堂は大東亜戦争で空襲の被害を免れたが、昭和48年に不審火によって一度焼失している。現在の本堂は平成2年に再建されたものである。堂内にはご本尊のほか、鎌倉時代の作とされる延命火除(ひよけ)地蔵尊、堂前には「花の観音様」と親しまれて遠方からの参詣者も多い救世(ぐぜ)観世音菩薩がある。
●源聖寺坂:大阪市中央区高津3-14-11/距離:149m・高低差:13.97m・平均斜度7度
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