遠吠えコラム・「肉フェスと万博とはしゃぎたい人たち」(※画像は肉フェスの番外編として地元の焼き肉店で食べた牛タン)
長らく途絶えていたブログの更新。まずは手慣らしのために、ついこの間、自宅近くで開かれた「肉フェス」の会場に足を運んで考えた、「肉フェス論」を、以下に書き記したいと思います。
「本物」よりも数段劣るコンテンツのダイジェスト
約1月ほど前のこと。詳細な地域は伏せるが、自宅のすぐそばのスーパーの屋上で、「肉フェス」が開かれた。地元店をはじめ県内外の飲食店約50店が一堂に会し、自慢の肉料理を会場で提供していた。
フェスは、地元で商売をする30~40代くらいの若者らが集まって立ち上げた実行委員会が主催。高齢化が進む地方都市には珍しい若者向けのイベントで、会場は同年代くらいの子育て世代などであふれかえっていた。10~20代の学生たちのほか。ごく少数だが、比較的高齢の来場者もいた。若者向けだが、割と幅広い層に波及したイベントだったと言えるだろう。主催者によると、2日間の開催で1万5千人が来場したという。開催地となった私の住むまちが人口5万人弱なのを考えると、かなりの集客だ。私の知る限り、これだけの集客力があるイベントを、私の住むまちで他に知らない。
会場が自宅のすぐ近くだったので、フェス期間中は、会場で調理されている肉料理の香ばしい匂いが風に乗って窓の外から部屋の中まで漂ってきた。会場でワイワイ、いやウェイウェイとはしゃぐ若人たちの声も風に乗って響いてきた。風が運んでくる何やら楽しげな雰囲気に誘われ、私はスーパーへの買い物がてら、「肉フェス」の会場に向かってみたが、結局、何も買わずに立ち去ってしまった。
会場に行って痛感したが、私は昔から文化祭や祭りといった大勢の人が集まってはしゃぐ催しの類が苦手だった。でも、食べることは好きだし、とりわけ肉は大好物なので、ガヤガヤする人混みをかき分けて会場内を歩いたが、屋台のどの店の料理も、不思議と興味をひかれなかった。
と言うのも、まず、コスパが悪いなあと思った。価格は安いもので500~600円だが、多くは1000円前後の価格帯だった。一番高いものでは2500円のシャトーブリアンステーキというのがあった。少しばかり高いなあとは思ったが、まあそんなもんか、と思って、テーブルに集まる来場者の目の前に並んだ料理を見てみたら、料理がいずれも小さかったように感じた。シャトーブリアンも、2500円も払わないといけないのに、1切れ当たりの大きさが、大きめに切った豚の角煮よりほんの一回り大きいくらい。まあ、シャトーブリアンなんて希少部位だからそんなもんだろうが…。シャトーブリアンに限らず、他の料理もまあ同じような感じで、仙台牛タンなんかも値段の割に薄小さいなあと感じてしまった。
加えて、私が住むまちで、「肉と言ったらこの店」と、地元の肉文化を象徴する焼肉店と精肉店があるが、いずれもフェスには出店してなかった。地元の肉フェスなのに。参加しなかった地元の焼き肉店は私がよく行く店だったので、後日、店主に理由を尋ねてみた。すると、店主は「店で提供した方が安く、量も多く、おいしく提供できる」と答えた。店主曰く、野外イベントは調理場が使いづらく、自分の実力が出しにくいのだという。加えてキッチンカーでの提供は手間賃がかかるので、普段出している量を提供した場合、店での値段より割高になってしまうのだそう。値段を抑えれば抑えようとするほど、量が少なくならざるを得ない。
また、手が込んだもの提供しようとすればするほど、提供時間もかかるというジレンマも抱える。おまけにキッチンカーは、普段使い慣れた調理場よりも狭く、調理量も店舗より数段劣る。振り返れば、会場の店舗の多くは行列が出来ていた。特にハンバーガーとか、長蛇の列ができていて一見賑やかに見えたが、裏を返せば、提供が遅くなっていたということだろう。そう考えると、焼きそばや焼き鳥、綿あめ、かき氷といった夏祭りの定番メニューって、屋台で提供するのにとても合理的だ。調理の手間がかからず、一度に大量に作って提供もできる。お祭りの屋台の類で提供する料理でこいつらの右に出るものは最早いないだろう。
ここまでのデメリットやコストパフォーマンスの悪さを抱えて、人々は肉フェスに何を求めるのだろうか。少なくとも、おいしい肉を食べたい、と言うのとはちょっと違う気がする。そういう動機はあるのかもしれないけど、突き詰めて考えれば、店で食べたほうが圧倒的にうまい。つまるところ、大人数でワイワイガヤガヤしたにぎやかな雰囲気の中で食事をするという、非日常体験を求めて訪れるのだろう。肉フェスに限らず地域の夏祭りだって飯を食べに行くというよりは、踊りを踊ったり歌を歌ったり、酒を飲んだりしてワイワイはしゃいだりする方がメインだろう。明るい時間帯から酒を飲んではしゃげるという非日常体験の方を、人々は祭りに求めている気がする。
加えて、地元ではお目にかかることがない肉料理が一堂に会するというメリットもある。例えば、会場には仙台の牛タンと信州名物山賊焼きが提供されていたが、実際に両方を現地で味わおうとすれば、かなりの時間とカネを要する。しかし肉フェスであれば、仙台と長野へわざわざ行かなくても、両方を味わうことができる。ただし、それぞれの料理は、先述したように調理環境やコスト上の問題から、値段が割高なうえ、本場で食べるのよりも数段劣るだろう。各コンテンツが持つ本来の持ち味のうちの一部しか出せてないものがずらりと並んでいるという意味では、じつは結構貧しいイベントなのではないか。
にぎやかな雰囲気で、各地の肉料理のダイジェスト版を味わう。これって何かに似ている。そう、万博だ。正式名称は万国博覧会。世界各国の珍物を博覧できるイベントで、今から約240年前、フランス革命の時期のパリで最初に開催された。当時、国をまたぐ際の主な移動手段は船。同時代くらいの記録などによると、横浜港を出発し、欧州につくのには40~50日程度かかったそうだ。海外渡航にかなりの時間を要した時代の人々にとって、世界中の文物を一度に観ることができる万博はかなり優位性があったのだろう。
翻って現代だと、日本からパリまでは飛行機でおよそ14~17時間。地球の裏側まで飛行機で1日かそこらで行けるような現代において、世界各国の珍物のダイジェストを集めた万博の意義はそもそも薄れているのではないだろうか。そもそも、フランス・パリと中国・上海に同時に行きたいと思ったことがないから、私は万博の価値がまったくわからない。牛タンと山賊焼きを同時に食べたいと思ったことがないのと同じで。
「肉フェス」開催目前でイベント名の変更騒動!舞台裏から見えたもの
地元の「肉フェス」を巡って、ちょっとした「騒動」が起きた。フェス開催2週間ほど前、急遽、イベント名「肉フェス」の名称変更を余儀なくされた。町中に貼られたポスターの表記にも訂正の必要が生じ、実行委員会の面々がポスターに書かれたイベント名にペンで文字を書き加えて名称変更を施す突貫工事を行っていた。
実はこの「肉フェス」という名称は、商標登録されているようで、権利を有する東京のイベント会社が、イベント名を変更するようクレームを入れてきたのだとか。元々肉フェスは2014年に東京・駒沢オリンピック公園でその会社がはじめたイベントなのだそう。全国各地で同様のイベントが開かれているが、それらのほとんどはこのイベント会社がプロデュースしているのだとか。
ちなみに私の住む町で開かれた肉フェスは、本家本元の会社の「肉フェス」とは一切関係ない。先述した通り、地元の商工関係の若手による実行委員会が主催するイベント。だが、本家本元からすれば、10年も前に自ら考案し、現在では商標登録もしているイベントの名前を勝手に使われ、権利が侵害されたと言いたいのだろう。まあ最もなことだ。
これは推測だが、私の地元で開かれた「肉フェス」も、本家本元を少なからず意識したのではないだろうか。その証拠に、実行委員会のメンバーの一人が、過去に肉フェスへの来訪をSNS上で自慢げに発信していた。しかも私の地元は果物が名物だが、肉は別に名物でも何でもない。「焼肉のまち」といった具合に何らかの肉文化が特別に根付いているわけでもない。地域の産物や文化を元に着想された「肉フェス」ではないことは誰の目にも明らかだ。
実行委員会の中心には、元営業マンの地域起こし協力隊が携わっている。地域活性化策の一つとして、比較的需要を広く取り込みやすい「肉」に商機を見出そうとしたのが容易に想像できるし、いかにも営業マンが安易に考えそうなことだ。その考えの甘さが露呈したのが、今回の名称変更騒動だと、私は分析する。
そもそも、地域活性化として活路を見出した策が、もう10年も前に東京のイベント会社がはじめフェスのパクリって、発想が乏しいにも程があるし、それって裏を返せば、うちの住む町が東京よりも10年遅れているって暗に認めちゃったようなもんじゃないか。
しかも、本家本元の肉フェスよりも内容が数段劣るし、会場で開かれていたステージイベントなんか、高校の文化祭に毛が生えた程度のものだ。いや、むしろ高校の文化祭のステージイベントの方がまだほほえましく観ていられたから、毛が生えた程度どころか最早、禿げ散らっていたかもしれない。
私の住む町は、その10年進んでいる東京までは3~4時間ほどで行くことができる。地鉄と新幹線を使って往復で約2万円だ。数時間と数万円ほどで10年の時空を超えることができる。肉フェスなんぞ、1年に1回のイベントだ。そこでちゃっちい肉料理を食べるくらいなら、俺は本物に会いに行きたいけどな。
でもこういう類の催し物に集まる連中って「本物」かどうかにはあんまり興味がなくて、気心の知れた連中と寄り集まって刹那的に盛り上がることができれば恐らく満足なのだろう。そのきっかけが肉だろうが、肉がビールに置き換わろうが、多分関係ない。要は何でもいいんだ。バカ騒ぎさえできれば。それって、身内でやっている飲み会と何が違うのか。
だからだろうか、ああいう類のフェスには共通して虚しさが漂う。はしゃいでいる時だけは楽しいけども、その後には何も残らない虚しさが。まあ、娯楽の少ない我が町には、たとえ虚しくても、こうしたフェスを必要とする人が多いということもまた事実なのだ。
ちなみに我が町で開かれる年中行事で私が一番好きなのは、某老舗出版社が自社の本の著者を招いて開く講演会だ。某フェスと違って、「本物」が田舎町にやって来て「本物」の話をしてくれて、しかも学びがあるから。
(了)