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現代の魔女狩り

先日、YouTube Liveでも配信されていた記者会見を視聴する機会がありました。それは十時間以上に及ぶ長時間の会見でした。もちろん、最初から最後まで通しで見ていたわけではありません。

午後四時ごろに記者会見が始まったことに気づき、夜九時になってもまだ続いていることに驚きました。深夜零時を過ぎても終わらず、最終的に午前二時ごろようやく終了しました。

終わりのない記者会見

この記者会見は、日本のメディア業界で起きたスキャンダルに関するものでした。フジテレビ内部で、女性社員が夕食会やイベントなどで男性タレントの相手をするよう求められ(暗に強要され)、性的ハラスメントが組織的に発生していた可能性が指摘されました。

これは、日本の芸能界における「#MeToo」問題と似た事案です。こうした行為が組織の圧力によって「強制」されていたのであれば、企業の重大なコンプライアンス問題として扱うべきです。実際、多くのスポンサーが問題を受け、フジテレビのCM放送を取りやめていました。

そこで、フジテレビの経営陣が記者会見を開くことになりました。しかし、メディアやジャーナリストは容赦なく質問を浴びせ続け、その内容は単なる事実確認ではなく、道徳的な糾弾に近いものでした。

まるで公開処刑のようであり、拷問にも見えました。集団ヒステリーのような雰囲気さえ感じられました。

コンプライアンス問題と辞任

今回の問題は、犯罪行為や訴訟の話ではなく、企業のガバナンスの失敗が問われています。組織が過去の不適切な企業文化を放置していたことが厳しく批判されていました。第三者委員会を設置し、組織的な問題の是正が求められています。

会見では経営陣の辞任と新たな人事が発表されました。本来、記者会見の目的は謝罪、問題の認識、再発防止策の説明であり、メディアの質問もそれに沿ったものであるべきでした。

しかし、こうした目的に沿うのであれば、会見は数時間で終わるはずです。それが午後四時から翌午前二時まで続き、十時間以上もかかりました。しかも、経営陣はほとんど休憩を取れず、わずか十分程度の短い休憩があったのみでした。

問題の重大性や社会的影響を考慮しても、異常な長さだったと感じます。

秘密主義から過剰な公開へ

実は、この記者会見は「二回目」のものでした。最初の公式会見はテレビカメラの入らない「非公開」の形で行われましたが、これが厳しく批判されました。特に、スポンサーや株主からの反発が大きかったようです。

そのため、今回は「完全に公開」された形で、制限なく行われました。あらゆるメディア、ジャーナリスト、フリーランス記者、YouTuber、テレビ局が参加し、ライブ配信までされました。

最初の「極端な秘密主義」を改める意図があったのでしょうが、今度は逆に「過剰な公開」となり、バランスを欠いた形になりました。

本来、非公開としたのは、被害者である女性社員のプライバシーに配慮し、さらに事案がすでに解決済みであり、関係者が守秘義務を負っているためでした。

しかし、こうした背景があるにもかかわらず、会見が過剰に公開されたことで、もはや「まともな議論」ではなく「公開処刑」の場と化してしまいました。

メディアの狂乱

特に、フリーランスの記者や過激なリベラル系ジャーナリストが次々と経営陣に質問を浴びせ続けました。

多くの質問は事実確認や建設的な議論のためではなく、単なる糾弾や感情的な攻撃でした。同じ質問が何度も繰り返され、会見の時間は際限なく延びていきました。

また、法的な守秘義務の関係で答えられない質問も多くありました。しかし、そのような場合でも「誠意がない」「マニュアル通りの回答だ」と非難されました。

この会見は、もはや「質問」ではなく「いじめ」や「ハラスメント」とも言える状況になっていました。

この光景を見て、歴史上のある出来事を思い出しました。そう、「魔女狩り」です。

魔女狩りと群衆の狂気

近世ヨーロッパの魔女狩りでは、多くの無実の女性が魔女の疑いをかけられました。

こうした告発の多くは証拠がなく、ただの噂や集団ヒステリーに基づいていました。一度「魔女」とされれば、無実を証明するのはほぼ不可能でした。

「魔女ではないことを証明しろ」と迫られるものの、存在しないものの“不在”を証明することはできません。これは「悪魔の証明」と呼ばれる論理的な罠です。

裁判は非道で、尋問と拷問が繰り返されました。何を言っても、その発言が逆に有罪の証拠とされてしまいます。「魔女ではない」と否定すれば嘘とされ、「魔女だ」と自白すれば有罪となる。沈黙を守れば、さらに拷問が加えられました。

この構造は、現代でも変わっていません。ただし、現代では火あぶりの刑ではなく、メディアの吊し上げやソーシャルメディアでの袋叩きが行われています。

イエス・キリストも群衆の狂気に殺された

イエス・キリストも、集団ヒステリーの犠牲者でした。

かつて彼を歓迎していた人々は、突如「彼を十字架につけろ」と叫びました。彼の教えに耳を傾けていたはずの民衆が、一転して彼を犯罪者扱いし、死刑を求めたのです。

ローマ総督ピラトはイエスの無実を知っていましたが、群衆の怒りに屈し、最終的に磔刑を宣告しました。

石を投げる者たち

聖書には、姦通の罪で石打ちの刑にされそうになった女性の話があります。

群衆はイエスにも石を投げるよう求めました。しかし、彼は「罪なき者が、まず石を投げよ」と言いました。

その言葉を聞き、人々は自らの罪深さを思い出し、石を投げるのをやめました。

しかし、現代ではどうでしょうか。

もう石を投げることはないかもしれません。それでも、言葉という“石”を投げ続け、誰かを精神的に追い詰め、社会的に抹殺し、時には命を奪うほどの影響を与えています。

そして、それを「正義」の名のもとに行っているのです。

十時間に及んだ記者会見で感じたのは、まさにそのような空気でした。

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