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主流派という神話
近年の大統領選挙に限らず、歴史の様々な場面で興味深い問題について考えさせられてきました。それは「主流派」という概念です。何をもって主流派とみなし、それはどのように保たれているのでしょうか。映画評論家と一般観客の評価が大きく食い違うケースや、ドナルド・トランプをめぐる激しい賛否両論など、この対立は何か本質的な問題を映し出しているように思えます。
この点で思い出されるのが、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』と『水源』です。学生時代、彼女の作品が呼び起こした情熱、特に彼女の提唱した客観主義哲学が熱心な支持者を今なお惹きつけている事実に心を打たれました。ある調査によれば、多くのアメリカ人にとってランドの著作は、聖書に次ぐ影響力を持つとされています。ところが、学術界ではその影響力がほとんど認められていません。知的エリートたちは彼女の作品を無視するか、退けるか、あるいは真っ向から批判します。このように、大きな文化的影響力を持ちながら、制度的には認められないという深い溝が存在しています。主流派が影響力ある思想や人物を受け入れないこの現象は、現代社会のあらゆる場面で見られますが、とりわけアメリカ社会で顕著です。
この対立は何に起因するのでしょうか。ある個人や思想、運動が、文化に大きな影響を与えているにもかかわらず、なぜ脇に追いやられてしまうのでしょうか。この問いを掘り下げると、単なる傾向以上のものが見えてきます。そこには、正統性を判断する側と、その承認なしで影響力を持つ側との、絶え間ない駆け引きが浮かび上がってくるのです。
主流派の定義
「主流派」という言葉からは、社会で何に価値があるとされるのかについての合意、つまり人々の共通理解が連想されます。本来、主流派とは思想、芸術、政治、文化における中心的な流れを指し、社会の規範が形づくられ、考えが練り上げられる場所です。しかしそれは同時に、特定の機関によって支えられた人工的な仕組みでもあります。これらの機関は門番として、どの意見に信頼性があり、どの意見を退けるべきかを判断しています。
主流派は、うまく機能すれば社会を安定させる力となります。哲学、文学、科学の分野では、これまで厳密な基準を設けることで、新しい考えが広く受け入れられる前に十分な検証を行ってきました。政治の分野では、議論の土台となる共通の枠組みを提供し、社会の連続性を保ってきました。もしこのような選別の仕組みがなければ、その価値や影響を問わずあらゆる考えが同じように扱われ、社会は混乱に陥りかねません。
ただし、この過程には偏りがあります。主流派は往々にして、権力を持つ人々―学者、評論家、政治エリートなど―の価値観を反映し、彼らの基準や関心に沿って形作られていきます。そしてその枠組みから外れるものは、たとえ優れた内容であっても、既存の体制に挑戦的だという理由で無視されたり否定されたりします。こうして主流派は、社会の知恵を映し出す鏡であるはずが、自らの権威を脅かす声を締め出す道具と化しているのです。
アイン・ランドの場合
アイン・ランドの存在は、主流派社会のあり方を如実に表す興味深い例です。彼女の小説『肩をすくめるアトラス』と『水源』は、アメリカ文化に深い足跡を残しました。これらの作品は、経営者や政治家をはじめ、個人主義や理性、自由市場資本主義を讃える彼女の思想に共感を覚える多くの読者から高く評価されています。一方で学術界では、ランドは今でも部外者として扱われ、独断的で深みに欠ける、イデオロギー的すぎるとして評価されていません。
この評価の低さには複数の要因があります。ランドの哲学である客観主義は、徹底的な絶対主義の立場を取ります。それは社会を生産者と寄生者、理性と神秘主義、個人主義と集団主義というように明確に二分します。研究者たちにとって、このような二元論的な考え方は単純に過ぎ、人間の経験が持つ複雑さを十分に理解していないように見えます。加えて、カントなどの著名な哲学者に対する彼女の容赦ない批判は、伝統的な知的探求を重視する学術界との溝を一層深めることになりました。
しかし、このような軽視は彼女の持つ大きな影響力を見落としています。ランドの思想は、アメリカの政治・経済思想に大きな影響を与え、連邦準備制度理事会議長を務めたアラン・グリーンスパンから、自由主義運動の指導者たちにまで影響を及ぼしてきました。彼女の小説は今なおベストセラーの地位を保ち、世代を超えて読み継がれています。このように、一般社会での絶大な影響力と、学術界での低い評価という対比は、主流派社会の限界を明らかにしています。それは、既存の制度が、自らの枠組みの外で育まれた重要な思想をいかに見落としがちであるかを示しているのです。
ドナルド・トランプの場合
アイン・ランドと似た状況がドナルド・トランプの台頭にも見られます。トランプは従来の権力構造の外部にいましたが、その影響力は否定できません。彼の大統領在任中、グローバル化、国家主義、エリート層の役割をめぐる議論は一変し、アメリカの政治は大きく変化しました。支持者たちにとって、トランプは「置き去りにされた人々」の声を代弁する存在であり、既存の秩序から取り残された人々の味方でした。批判者たちは逆に、民主主義の規範を軽んじる危険な扇動政治家だと非難しました。
主流派はトランプを拒絶し、警戒感を示してきました。メディア、政治機関、文化的エリートたちは、彼をアメリカの民主主義の原則から外れた異常事態として描く傾向にありました。しかし、このような見方は彼が支持される本質的な理由を見落としています。トランプの魅力は、既存の権威を介さず、まさにそうした機関から疎外感を抱いている人々に直接語りかける点にありました。彼の言動は社会の分断を招きましたが、自分たちは主流派から締め出されていると感じる人々の共感を得たのです。
興味深いことに、エリートたちの拒絶的な態度は、かえってトランプの存在感を高める結果となりました。主流派が彼を部外者として扱うことで、彼らの権威に立ち向かう存在というイメージが強まったのです。トランプの台頭は、主流派による選別という仕組みの限界を示しています。社会秩序を揺るがす存在を無視したり排除したりすることは、その影響力を弱めるどころか、むしろ強めてしまう可能性があることを明らかにしているのです。
周縁化の仕組み
ランドやトランプのような人物が周縁に追いやられる背景には、ある大きな仕組みが働いています。制度としての主流派は本質的に保守的であり、変化を嫌い、既存の規範を守ろうとします。秩序を揺るがすような考えや人物に出会うと、真摯に向き合うのではなく、多くの場合、単に退けてしまいます。その結果、主流派から排除された者たちは別の方法で影響力を得ようとし、拒絶と抵抗の循環が生まれていくのです。
周縁化の手法は多岐にわたります。最もよく見られるのが否定です。ある考えを「単純すぎる」「取るに足らない」「危険だ」とレッテルを貼ることで、主流派はその本質的な議論を避けてしまいます。また、厄介な声を黙殺することで、公の場での認知を与えないようにする戦略もあります。さらには、複雑な考えを意図的に単純化して茶化し、信用を失わせやすくする手法も使われます。こうした様々な戦術によって、主流派とその外で活動する人々の間に見えない壁が築かれていくのです。
しかし、この壁は完全なものではありません。情報発信が分散化し、草の根運動が盛んな現代では、影響力は必ずしも公的な承認を必要としません。ランドの小説は学術界から無視されながらも、依然として多くの読者を獲得し続けています。トランプは従来のメディアを介さず、ソーシャルメディアを通じて大勢の支持者と直接つながっています。こうした変化は「主流派」という概念そのものを揺るがしており、主流派は時代に適応するか、存在意義を失うかの岐路に立たされているのです。
中立性という幻想
主流派は、優れた考えが実力と厳密な審査によって自然と認められる中立的な判定者として、しばしば自らを位置づけます。しかし、この中立性は表面的なものにすぎません。主流派の判断は、それを牛耳る人々―学者、評論家、メディア組織など―の価値観や先入観を映し出しており、彼らの基準によって重要なものと無視するものが選別されています。何を信頼し、何に価値を見出すかは、客観的な真実というより、文化や歴史、政治的な力関係が生み出した結果なのです。
この中立性という幻想は、影響力というものが持つ生き生きとした本質を覆い隠してしまいます。主流から排除された者は価値がないかのように見なされがちですが、実際にはその排除こそが、彼らの価値の欠如ではなく、主流派の限界を示しているのかもしれません。例えば、学術界がランドを軽視してきた事実は、彼女の思想の価値よりも、学術界自身の偏った姿勢を浮き彫りにしています。同じように、エリートたちがトランプを拒絶したのは、彼に影響力がないからではなく、既存の秩序を揺るがす存在に対する彼らの不安の表れだったのです。
主流派の再考
アイン・ランドとドナルド・トランプの例は、私たちに「主流派」という概念の見直しを迫ります。彼らの存在は、影響力が様々な層で働くことを示しており、既存の権威を介さずに直接人々の心に届くことがあります。また、制度的な権威と大衆からの支持との間にある緊張関係を明らかにし、主流派が自らの枠の外で影響力を持つ人々の重要性を理解できない状況を浮き彫りにしています。
このような現象はランドやトランプだけに見られるものではありません。歴史を振り返ると、政治、文化、思想の面で世界に大きな影響を与えた人物たちが、その時代の主流派から無視されたり否定されたりすることは珍しくありません。周縁に追いやられながらも影響力を持つという循環は繰り返し起こり、それによって主流の境界線は常に揺さぶられ、新たに引き直されているのです。
主流派という神話
「主流派という神話」は、何が価値を持ち、信頼でき、正当なのかを決める権利が主流派にあるという思い込みにあります。実際のところ、主流派とは人工的な構造物―権力者たちによって作られた、受け入れるものと排除するものを選別する仕組みにすぎません。アイン・ランドやドナルド・トランプのような存在は、その限界を明らかにし、公的な認証がなくとも影響力を持ちうることを示しています。
このような対立は、主流派の仕組みの欠陥ではなく、むしろ本質的な特徴といえます。それは、安定と合意を重んじる体制が必然的に持つ保守的な性質の表れです。しかし同時に、既存の秩序から拒絶されても、個人や思想には社会を変革する力が宿りうることを教えてくれます。このように、主流派という神話は私たちに課題を突きつけると同時に、新たな可能性も示唆しているのです。影響力は公的な承認の範囲内だけにとどまるものではなく、人々の心を動かし、変化をもたらす力を持つものであれば、どこにでも生まれうるということを気づかせてくれます。
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