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3万5千フィートの映画館:「シビル・ウォー」が投げかける問い

9月初旬、妻と私はスイス旅行のためドバイからチューリッヒへ向かう飛行機に乗っていました。その機内で、アレックス・ガーランド監督の最新作「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(以下、「シビル・ウォー」)に見入っていました。

国境を越えながら、分断されたアメリカを描いた映画を観る。その皮肉さは私の心に響きました。小さな画面に映し出される混沌とした世界とは対照的に、機下には様々な国々が平和に広がっています。この特異な鑑賞体験は、映画のテーマと、複雑化する現代社会におけるその意義について、深く考えさせるきっかけとなりました。

現代アメリカを映す鏡

「シビル・ウォー」は、内戦に引き裂かれた近未来のアメリカの姿を、ぞっとするほど生々しく描き出します。映画の設定は、近年、特に大統領選挙の際に顕著になった深刻な分断を極端に推し進めたものです。この仮想的なアプローチは、歯止めのきかない二極化がもたらす恐ろしい結末を観客に突きつけ、警鐘を鳴らします。

映画が描く反ユートピア的なアメリカの姿は、単なる空想ではありません。それは現在の傾向を注意深く観察し、論理的に推し進めた結果なのです。イデオロギーの対立、民主主義の形骸化、国民としての一体感の喪失など、今日の社会に潜む緊張関係を極限まで高めた世界を描いています。そうすることで「シビル・ウォー」は、私たちの政治システムの脆さや社会の結束力の危うさについて、不快ながらも避けては通れない問いを投げかけるのです。

この描写が特に不安を掻き立てるのは、それが決して荒唐無稽ではないからです。映画に描かれる個々の出来事は架空かもしれません。しかし、それらを引き起こす根本的な流れは、私たちの身近に確かに存在しています。この映画は鏡のように機能し、私たちの社会に走る亀裂をくっきりと映し出します。日常の会話に潜む対立の種に気づき、自分たちの言動が悲惨な未来を招くのか、それとも回避する力になるのか、考えるよう私たちに迫っているのです。

戦争報道写真の真価を問う

「シビル・ウォー」の核心部分には、戦地でのフォトジャーナリズムに関する深い洞察があります。これは私に多くの問いを投げかけました。戦争写真とは何なのか。それは純粋なジャーナリズムなのか、芸術なのか、それとも一種のエンターテインメントなのか。何が人々を駆り立て、命の危険を顧みず、紛争と人間の苦しみを撮影しようとするのか。

戦争写真家の動機は、単純ではありません。一方では、世界の紛争を記録し報道するという、明確なジャーナリズムの使命があります。これらの写真は、さもなければ世界の目から隠れたままだったかもしれない現実を、視覚的に証言します。人々の意識を喚起し、時に政治的行動や人道支援を促す力を持ちます。また、後世の人々が学び、研究するための貴重な歴史的記録となります。

しかし映画は、戦争写真の持つ問題点も示唆しています。多くの戦争写真には、否応なく人の目を引く衝撃的な要素があります。情報過多の現代社会で、そうした刺激的な画像は特に注目を集めやすいのです。これは、記録と搾取の境界線をどこに引くべきか、倫理的な問題を提起します。写真家は時に、公平な報道よりも劇的な効果を優先してしまうのではないか。人間の苦しみを写した画像から、金銭的にもキャリア的にも利益を得ることの是非は、どう判断すべきなのか。

さらに「シビル・ウォー」は、戦争写真が被写体と撮影者の双方に与える影響についても考えさせられます。カメラに収められた人々にとって、最も弱く傷つきやすい瞬間が世界中に拡散されることは、一種の暴力かもしれません。たとえそれが「世界に真実を知らせる」という大義名分で正当化されることが多いとしても。一方、写真家自身も、繰り返しトラウマや暴力に晒されることで、深刻な心の傷を負う可能性があります。映画は登場人物たちの軌跡を通じて、この現実と向き合おうとしています。

安易な「英雄の旅」への疑問

「シビル・ウォー」は、起こりうる未来の姿や戦争ジャーナリズムの複雑さについて、貴重な洞察を提供しています。しかし、若い女性写真家が職業人として成長していく過程の描き方には、問題があります。映画は、よくある物語の型にはまってしまっているのです。つまり、未熟な写真家が、ベテランの指導を受けながら、紛争という試練を通じて変容を遂げ、より強く、たくましく、プロとしての能力を身につけて成長する、というストーリーラインです。

この展開は確かに劇的で魅力的ですが、倫理的にも心理的にも重大な問題をはらんでいます。極度の暴力や人間の苦しみに触れることが、個人の成長や職業的な発展につながるかのような印象を与えてしまうのです。このような描写は、トラウマを美化し、戦争の残虐行為を目の当たりにすることがもたらす深刻な心理的影響を軽視してしまう危険があります。

死や破壊、残虐行為に繰り返し晒されることで「成長」できるという考えは、単純すぎるだけでなく、有害です。これは、トラウマが戦争ジャーナリストにとって必要な通過儀礼だという危険な神話を助長してしまいます。現実には、そうした経験は多くの場合、心的外傷後ストレス障害やうつ病など、長期にわたる心の傷を残します。若い写真家の成長を英雄譚のように描くことで、映画は無意識のうちに、実際には深刻な精神的問題につながりかねないプロセスを美化してしまっているのです。

さらに、この物語展開では、戦争写真家が直面する複雑な倫理的ジレンマを十分に掘り下げられていません。写真家としての判断や道徳的な葛藤を丁寧に描く代わりに、主人公の成長を「タフになる」こと、より「プロフェッショナル」になることという単純な図式に落とし込んでしまっています。これでは、現実の戦争ジャーナリストが日々直面している難しい判断―撮影するか介入するか、激しい人間の苦しみを目の当たりにしながらどう客観性を保つか、公衆の知る権利と被写体の尊厳やプライバシーをどうバランスを取るか―といった問題の複雑さを、十分に伝えきれていません。

より繊細な物語の必要性

「シビル・ウォー」は確かに、私たちの社会が直面する重要な問題について、深い思索と議論を喚起することに成功しています。分断されたアメリカという仮想的なビジョンは、現在の政治の行き着く先について、強い警告として機能します。また、戦争写真に焦点を当てることで、世界の紛争に対する私たちの理解を形作る上で重要な役割を果たす、しばしば見過ごされがちな職業に光を当てています。

しかし、若い主人公の成長の描き方には、このような複雑で繊細な題材に従来の物語の手法を当てはめることの限界が表れています。戦争ジャーナリストを安易に英雄視したり、トラウマを成長への近道として描いたりする誘惑に負けない、より繊細な語りが求められています。今後の作品では、戦場で働く記者たちが日々直面する倫理的な葛藤や、彼らの精神的健康を守るために必要なサポート、そして私たち自身が紛争の映像をどう受け止め、それにどう反応するかといった、より広い社会的な影響にも目を向けてほしいものです。

チューリッヒへの着陸態勢に入りながら、私はこうした相反する印象について考えを巡らせていました。

「シビル・ウォー」は確かに、重要な対話の端緒を開くことに成功しています。しかし同時に、物語のお決まりの型に頼ってしまったことで、複雑な現実を映画で表現することの難しさも浮き彫りになりました。スクリーンに映し出された混沌としたアメリカと、私たちを待ち受ける平和なスイスの風景。そのコントラストは、紛争とその記録、そして個人と社会に与える影響について、より繊細な理解を深めることの重要性を改めて強調しているようでした。

おそらく、「シビル・ウォー」の最大の価値は、その物語の細部にあるのではなく、こうした批判的な省察を促す力にあるのでしょう。ますます複雑化し分断が進む世界で、私たちには、共有すべき未来や、苦難の記録者たちの倫理的責任、そして紛争がもたらす人的コストについて、深く考えさせてくれる物語が必要です。この映画がすべての答えを提供しているわけではありません。しかし、多くの正しい問いを投げかけ、エンドロールが流れた後も、観る者の心に長く残る余韻を与えてくれるのです。​​​​​​​​​​​​​​​​

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