映画「500ページの夢の束」のこと。
自閉症のウェンディは「スター・トレック」が大好きで、自分なりの「スター・トレック」の脚本を書くことが趣味だった。ある日、「スター・トレック」の脚本コンテストが開かれることを知った彼女は……。監督は「セッションズ」のベン・リューイン。
以下感想。
あなたは山道を歩いている。それは細い道で、木々の間から光が射している。その時、道の途中で木の棒を一本見つける。それを手に取って、あなたはそれが何の変哲ものない普通の木の棒だとわかる。
Q: その時あなたはその木の棒にどんな意味を持たせるだろうか。
幼い子供にとっては、その木の棒は「魔法の剣」になるかもしれません。科学者には「日時計」。使う人によっては誰かを傷つけてしまう「こん棒」にもなってしまい、一方で、足が不自由であれば「杖」にもなる。それでも木の棒は変わらずそこにあるだけです。ただの木の棒がそれぞれの解釈で、夢や科学の具現化にも、あるいは暴力装置にも人を救いにもなる。ただそこにある現実を、その人らしい解釈でその人のものの見え方で世界を切り取る。その見え方はもしかしたら、その人「そのもの」といえるかもしれません。
今回の映画「500ページの夢の束」は木の棒を自身の救いとして解釈し、「大丈夫」と生を肯定した作品かなと思いました。
すきを肯定する。
その無垢さ。無邪気さ。その真摯さ。
自閉症としてつらく過酷な現実の前でも、自分を「保つ」にはどうするのか。主人公のウエンディは自分の「すき」を頼りに、世界と繋がって日常を生きています。すきが命綱であり、へその緒であり、暗闇を照らす懐中電灯でもある。
そんな時自身を変える、大きなきっかけを目にする。それは未知の世界の話であり、その場所は行ったことも、行き方も、行くための予算も、日数もわからない場所。でも、自分の中にあるすきの感情だけはどんどん大きくなる。危険が伴い、ルールを破ってしまうかもしれない、そもそも行けるかわからない、間に合わないかもしれない、だまされてしまうかも。
そんな不安や、実際に道中に起きてしまうトラブルに彼女は何度も何度も足を止めます。止めるたびにちゃんと、おまじないを唱えます。それはすきが教えてくれたこと。あのとき、ちゃんと学んだことやその経験をお守りに、また歩んでいく姿に私は涙を堪えるしかできませんでした。
何かがすきなことはそれだけで救いになり得る。
今年は、自己表現によってその人自身が救われるテーマの作品(exカメラを止めるな。ブリグズビーベア)にたまたま出会う機会が多くて、運がいいなと思いました。物語の彼ら彼女たちのように私も「すき」に、真摯に向き合える人間になりたいです。