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編集参考資料

こんにちはtyauzoです。ここに編集時に個人的に考えていることをまとめておきます。物事の捉え方というよりかは、なるべく事実に基づいたシステマティックな方法論的なものなので、編集だけでなく「動画」というコンテンツについて考える際にも役立つかと思います。

つまり小手先の工夫等でなく、効果音やテロップにしても、「なぜこのようなフォントを選んだか?」や、「どのようなカット割りをすべきか」などの根拠について、コンセプチュアルな部分について記述します。

先に全体像から述べると『("らっだぁ"というコンテンツの性質上)"編集で面白く"は不可能というメタの上で、どのように編集をすべきか』ということについて考えていきます。

らっだぁちゃんねるの特徴とは何か?

最初に、何故らっだぁさんの動画において”編集で面白く”が不可能か、ということについて解説していきます。

不可能になる原因として、らっだぁちゃんねるの以下のような特徴が深く関わってきます。

・他者とのコミュニケーションが多い(リスナー、他の実況者とのコラボ)
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・動画のメインの内容が「らっだぁさんと他者との交流」になることが多い

動画に「らっだぁさん以外の人物が登場する」、これの意味するところは「らっだぁさんの行動に対して、反応をする存在が動画中にいる」、例えばらっだぁさんがふざけたりしたら他者がそれにツッコミを入れたり、その逆もまた然り…ということです。

要するに”動画内でコミュニケーションが完結している”というのが原因となるらっだぁちゃんねるの特徴と言えます。

らっだぁさん以外をあまり見ない方は「これのどこが特徴的な部分なの?」と疑問に思われるかもしれませんが、これは対極的な「個人で活動している方」と比較することでその構造(メタ)が分かりやすくなります。

ここでいう「個人で活動してる人」は「動画内での登場人物が本人のみ」であることを指します。(近い人物だとぴくとさんなど)

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「コミュニケーションが完結している」とは、”何らかの言動に対してレスポンスが返ってくること”を指します。この”レスポンス”、ここではわかりやすく”ツッコミ”と言い換えましょう。

たとえばらっだぁさんが動画中でボケるとします、するとここでのツッコミは他の実況者やリスナーコメントによって動画中で行われ、そこで完結します。

一方で個人実況者の場合、動画内での”ボケ”は一旦動画が公開されてから視聴者によるコメントでのツッコミが入るまで完結しません。(セルフツッコミに関しては後述するので一旦置いておく)

つまりらっだぁさんと個人実況者の差は”いつツッコまれるか”にあるわけです。この差は、動画視聴に対する視聴者の姿勢に影響を及ぼします。

結論から言うと、らっだぁさんの動画は「視聴者が見に行っている(能動的)」、個人実況者の動画は「視聴者が見せられている(受動的)」という姿勢の差です。(構造上そうというだけで、実際に視聴者がどのような意識で動画視聴をしているかは関係ありません。)

先ほど述べたように個人実況者の場合は、自分一人しかいないため(収録時点の無編集の状態では)どうしても動画内のボケに対するツッコミを演出することができません。
つまり動画公開時点まで、いわゆる”ツッコミ待ち”の状態であるわけです。なので実況者側は「見て下さい!」、そして視聴者側は「見せられている(受動的)」という関係性になります。(実際の両者の意識がどのようであるかは関係ありません。)
この関係性は大道芸やショーにおける演者と観客の関係性と似ており、構図としては実況者がステージに立ち、視聴者がそれを見上げている状態です。

一方でらっだぁさんの場合は、他に登場人物がおり、動画内でボケに対するツッコミを演出することができます。つまりはそこで完結しているので、らっだぁさん側としては個人実況者と違って「見て下さい!」という姿勢ではなくなり、(あくまで”複数人登場する動画の性質上”、という話であり、動画投稿者としてのらっだぁさんは「是非見て下さい!」という姿勢です)反対に視聴者側が「見に行っている(能動的)」という状態になります。

この関係性は、日常アニメで例えることができます。ここで注意しておきたいのがらっだぁさん側は日常アニメの「制作側」でなく「キャラクター、登場人物」であるという点です。(視聴者はそのままアニメの視聴者で例えられる。)

また視聴者側の意識の差は、実況者側の意識の差と並列の関係にあります。

上記で述べたように、個人実況者はレスポンスを求める為に視聴者に対して「見て下さい!」という姿勢でいます。つまり「動画中で視聴者を意識している」という訳です。それは大道芸人が観客に面と向かってパフォーマンスするのと同じです。

そしてらっだぁさん、及びその動画の出演者はそこでコミュニケーションが完結しているため「動画中で視聴者を意識していません」。これは日常アニメの登場人物がアニメの視聴者に向かって語り掛けないのと同じ理屈です。(※「意識していない」というのは動画の構成上の話です。)

この実況者と視聴者の関係性を俯瞰的に把握することが、動画編集の方向性を決定する上で最も重要なポイントとなります。


これを把握したうえでどのような編集をするのか

例えば個人実況者の場合、視聴者に「何を見てほしいのか」、「どこが面白いのか」を自ら明確に提示する必要があります。先ほど大道芸人で例えましたが、そのパフォーマンスと構造はほとんど同じです。

「これから○○をします」→「△△することができたら成功です」→「もし出来たら拍手をお願いします」

つまり、「何が面白いか」を自ら決めて(絞り込んで)提示しているという点が肝心です。この時の編集の役割は「段取りを分かりやすくする」、「成功を劇的に見せる」など、とにかく自分で設定した「面白さ」のアシストになる編集であれば何をしてもいいという立ち位置になります。これは編集もパフォーマンスの一部であると言い換えることもできます。つまりこの場合、編集は加えれば加えるほどコンテンツに対し有利に働きます。

しかしらっだぁさんの場合、事情が全く異なってきます。

先ほど述べたように複数人登場人物がいる場合コミュニケーションが完結しているため、視聴者の存在を意識することができません。つまりは収録では「何が面白いか」を自ら提示できないという事態が発生します。「何が面白いか」は、それぞれの視聴者の能動的な解釈に委ねられており、要するに”何を面白いと感じるかは視聴者によって違う”ということです。

何故”自ら提示できないのか”をもう少し詳細に解説すると、提示するという行為(=自ら「ここが面白い!」と示す事)そのものが不自然になってしまうという問題があるためです。本来視聴者を意識しない立場の筈なのに、例えば編集でテロップや効果音などで「ここが面白い!」という姿勢を見せてしまうと辻褄が合わなくなってしまいます。日常アニメで例えるなら、それまで普通に話していたキャラクター達が、急にアニメの視聴者に対して言及してくるのと同じです。所謂メタフィクションの構造とよく似ています。

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例えばゲーム実況者が、明らかに撮れ高や盛り上がりを求めてわざと死んだりしたら視聴者側としては冷めますよね。それはあくまで”クリアに向けて努力している”という前提の下でミスを重ねたり、その末にゲームクリアを達成したりすることで視聴者が盛り上がっているという共通認識を破壊するものだからです。

つまり編集そのものがメタ的な視点に立ってしまっている訳で、編集すればするほど解釈の余地を減らしてしまうために、その理論の上では「無編集が一番いい」という結論に至ってしまいます。


本当に無編集が一番いいのか?

しかしながらこれは「視聴者が能動的な解釈に際し、無限の労力を割いてくれる」という仮定の下に成り立っています。実際は視聴者ごとに動画に対する姿勢は全員異なり、初見ゆえに会話の内容の8割が理解できなかったという人もいれば、実況者達の事をほとんど理解しているから喋っていない間の時間も”何を考えているんだろう”と楽しむことができるという人もいます。

なので結局「どのように編集すべきなのか?」という問いに対しては、「ターゲットとなる視聴者層の理解レベルに応じて編集の密度を変える」という何とも凡庸な回答になってしまいましたが、何故そうなのか?という根拠の部分について理解しているのとしていないのでは編集指針を決めるスピードに差が出ますので、知っておくに越したことはないと思います。

実際どう編集するか

らっだぁちゃんねるのターゲットは初見層です。つまり元の映像データの無数にある要素を前提知識無しで楽しめるように削ぎ落していく編集を施していくことになります。ただその”削ぎ落された要素”も誰かにとっての面白い部分であるというリスクを理解した上で、最大公約数の視聴者にとって面白いと感じる部分の取捨選択を見極める能力が求められます。なので、ある種らっだぁさんをよく視聴する方ほどこの点においては厳しい部分があるかもしれません。

この取捨選択の能力はコメディやお笑いへの理解度と密接に関係しているような部分があり、これに関しては各々研ぎ澄ましてくださいと言う他ありません。まだ誰もゴールに辿り着いてない分野なので。ただその上でヒントを残すのであれば、ネタボケライフ等の競技の大喜利とかを頑張ってみたらいいと思います。僕はレート1900で止まってしまいました。

また「編集すればするほど面白くなくなってしまう」ことを踏まえた上で、その影響を最小限に抑える編集の方法、画面構成や効果音の細かいテクニックについても記しておこうと思います。

全てテロップに起こしている理由

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現在テロップに関しては、会話の流れの上で発されたセリフをすべて文字に起こし、要所で強調表示をするという手法を採っています。

全て文字に起こすという明らかに効率の悪い方法を採用しているのは、誰かにとっての好きなシーンになるかもしれない部分を蔑ろにしてしまうという危険性を可能な限り排除する必要があるからです。実際、思ってもみなかった意外な場面が視聴者に人気を博していることが結構な頻度であります。

情報より視覚的な効果を優先

常識的に考えて会話と同じスピードで切り替わるテロップなんて読めるわけがありません。それでも全て文字に起こすのは、そもそも会話内容の伝達手段としてより、視覚的効果としての役割をテロップに期待しているからです。例を交えて解説します。

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このシーンが一番わかりやすいと思います。おそらく再生速度を0.25xにしても追えないテロップの量=つまりそもそもテロップを読んでもらうことを想定していません。ここでの目的は「実際に何を喋っているか伝えたい(伝達)」ではなく、「”らっだぁさんが全員に無視されている”という状況が一発で伝わるように画面一杯にテロップを表示することで表現したい」という視覚的効果を狙ったテロップでの表現です。

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こちらも視覚的効果を狙ったのテロップの表現としてわかりやすい一例です。普通に考えて文字として読みづらすぎます(=伝達手段として不適切)が、ここでの目的も同じく「何と言ってるのか」はそこまで重要でなくて、「叫んでいる感じを強調したい」というものになります。

何故視覚的効果を優先するのか?

そもそも情報なんて視聴者に伝えてナンボであるのに、何故視覚的効果を優先するのでしょうか?その理由は、前半部分とも繋がってきます。

”所詮ゲーム”と思わせないための臨場感

ここで一度、初見(しかも厳しめな人)の立場に立ってみましょう。”所詮ゲーム”です。Among usや青鬼ごっこをプレイしている彼らが、例えばプロスポーツ選手のように全力で勝利を目指しているかと言われればそれは否です。なぜならコンテンツとして面白さの肝要な部分はゲームのリザルトそのものというよりかは、その結果の上で彼ら登場人物がどのような反応をするかにあり、彼らの意識の大半はそこに割かれているためです。

ただ肝要でないとはいえ、その面白さは「ゲームに真摯に向き合っていること(Troll行為に走らないこと)」という前提の上に成り立っています。つまり初見の方に一度でも登場人物の姿勢が勝負事に対して真摯でないと思われてしまった場合、その上でどんな面白いことが起きようが「でも撮れ高のための行動なんでしょ?」という感情の下に非常にチープなものに映ってしまいます。(あるいは「ビジネスネタ」として消費されることもあります)

ここで編集で出来ることは、彼らがゲームに対しより真剣に見えるように臨場感を演出することです。それは上記で述べたようなテロップのエフェクトやフォントの工夫だったり、あるいは同じセリフにしてもどのように文字起こしするかによっても可能です。

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効果音について

こんな部分まで読んでいる方ならもうわかるかもしれませんが、効果音自体も面白さの提示・強調になってしまうので使いすぎは禁物という話です。

なのでこういったシンセ系の明らかな「ボケてまっせ~!」感のある音は個人的に避けています。(ただ音の与える印象に関しては人によって結構異なってきますので、各々で判断してください。)(稀に動画内で使われていることがありますが私が挿入したものではありません)

ただ上のような環境音系は臨場感を演出する上で非常に役に立つので、ドシドシ使っても違和感が出ません。

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例えばMinecraftやAmong usなどのゲームは他人をキルする際のインパクトがどうにも弱く”その人をゲームから除外する”という劇的な状況、臨場感がいまいち伝わりにくいので、上の画像のように効果音+コントラストをめちゃめちゃ上げていかにも「殺った」という感じを演出しています。

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