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スピリチュアル沼から脱出

こんにちは。ちゃたすけです。
今日も気ままに書いていきます。

スピリチュアルって魔法みたいでワクワクするところありませんか?

この世界を思う通りできたら楽しそうですよね。
極めたら自由がありそうな気がしてました。

自由にもいろいろあって、本当の自由と自由だと思い込んでるやつがあるっぽいんですよね。

序盤からなんかこんなこと言ったらあれなんですけど...やっぱり真にスピリチュアルに生きると自由が確かに手に入るんですけど、思ってたような物ではなかったんですよね。

思った瞬間にその世界がもうあるとか、その周波数になると叶うとか...
そんなもんじゃなかったです。

気がついた時から永遠の幸せになるので、もはやそんな小手先のどうのがいらんくなります。

ちょっと書いていきます。

この世界の構成ってどうなってるかというと、
たったひとつの何か→私が在る→マインド(思考・感情)の構造っぽいんです。

通常は作られたマインドを私たちだと信じてるので、物理空間の現実に振り回されることになるんです。

「世界があり、その中には私たちは存在している」って感覚ですね。

でも実はこれって反対です。

「私たちが存在しているから、世界が存在してる」が正解だったみたいです。

まあなぜかというと、記憶を辿ってみると、自分のマインドの構築を担う何かの事件こそが、思い出される最初の記憶だったりしませんか?

つまり“私“という意識が作られてから、この世界が始まってません?

もうちょい詳しく書くと...

私たちが普段外の世界を見るときには、肉体の感覚器がそれを知覚して、過去のデータが引っ張り出され、それによって思考や感情が誘発されます。

そしてあなた独自のバーチャルワールドが作られるんです。
感情的になってしまうことや、こうあるべき的な価値観によってつくられた鏡のようなお城です。

よくスピリチュアルで耳にする、その周波数になれば叶うとか、願った瞬間叶ってるとかありますよね?

鏡の世界に住んでいるので、そりゃそうなりますよね。

あなたが笑えば鏡の中のあなたも笑います。

でもここで気がついて欲しいんです。

私たちはアイデンティティを私たちだと勘違いしてる限り、外の世界に見えるのは、私たちのアイデンティティがなんであるかだけなんですよ。

つまり、それを手にしても真に自由にもならないし、真実の愛にも辿り着けません。

この世界を思うようにしたいという願望を持っている限り、鏡の城から自由にはなれないんです。

自由になりたいなら、真実の世界に気がつかねばいけません。

真実の世界に気がつくとは、真実の私たちが誰なのか知らないといけないんです。

鏡を見るのをやめて、自分自身に気がつく必要があります。

なぜならそれに気がつくまでは、鏡を見続けてしまうからです。

目はそれ自身を見ることはできませんよね?

それと同じように、もし思考や感情が私たち自身であったなら、それらを見ることはできません。

なので本当の私たちは、それらを観察している何かになります。

鏡の世界を観察している。
全ての思考や感情の中心点。

つまり、私は在るという感覚が本体です。

ここに気がついたなら、次の段階にこえていきましょう。

「私が在る。」を支持しているものは何でしょうか?

それが言葉で表現できない“それ“と言われているものです。

この世界の全ての源です。
つまり私たちや全ての物や人は、この唯一の源の現れなんです。

この感覚に気がつくことがワンネスを体験する方法です。

私という感覚を、このたった一つの何かに深く鎮められたなら、それは全てを手にしていると気がつけます。

そこにはもはや変わってほしい現実などありません。何かを願うことなどなくなります。

私が在る。
これだけがこの世界で唯一の持ち物です。

そこに至れたならば、この世界がやっと鏡ではなくなり、真に自由になれます。

真実の世界には、善悪も快も不快もありません。
ただひたすら中立な世界です。

鏡の城から抜け出した、真に自由で広大な世界があります。

今日もありがとうございます。

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