少しずつ前へ
『子は親の鏡』
けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもも人を羨むようになる
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる
〜〜〜〜〜〜
この詩は1954年にドロシー・ロー・ノルトさんという方が書いた詩です。ドロシー・ロー・ノルトさんは当時二人の子どもがおり、仕事では保育園の主任を務めていました。そんなドロシー・ロー・ノルトさんが当時の親御さんたちの悩みに答えたいと思って書いたのがこの詩でした。
私は初めてこの詩と出会ったとき、当時高校生でした。そのときの私がこの詩をみて思ったのは、大きな共感と「私もポジティブな関わりを親や教師にしてもらいたかった」という願望でした。いま改めてこの詩を読めば、私だってたくさん褒められたり、認めてもらったり、公平に扱ってもらったり、正直であることの大切さを親の背中を見て学んだり、たくさんの良い関わりをしてもらったことがたくさん頭に浮かびます。けれども、人と自分を比べてないものねだりばかり考えていた当時の私は、自分は親や教師からネガティブな関わりばかりされてきたかわいそうな子だと自分のことを思ってしまったのでした。
そして、私はこのとき、あることを心の中に誓いました。それは「私は自分の子だけでなく、友人や恋人、同僚や近所の人など、自分が出会う全ての人にできる限りポジティブな関わりができる人になろう!」という決意でした。
そしてそれから月日は流れ、私はもう24歳になりました。果たしていまの私は高校生の頃に抱いた決意を守り抜くことができているでしょうか。
答えは「NO」です。
私は疲れているとき、自分のことで精一杯のときは特にトゲトゲしたり、相手に自分の不安な気持ちをぶつけてしまったりすることが多々あります。
けれども、私はこの詞に高校生のときに出会えて本当に良かったと思うこともあります。きっと私はこの詞に出会えていなかったら、自分のことだけしか考えていない振る舞いをしても、いまほど自分を成長させようという気持ちを持つこともできなかったと思うからです。
だから、もし今日、誰かを傷つけてしまった人がいても、真っ直ぐな人になることを諦めないでほしいなと思います。
なりたい自分になることは難しいけれど、少しずつ前に進むことは可能だからです。
そうして一人ひとりの気持ちが積み重なれば、いつかいじめがなくなる社会の実現も可能になるのではないかと私は希望を抱いています。