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社会の中で生きていくために

子どもが大人を困らせるような行動をして相手からの愛情を図ることを「試し行動」という。

私はこの「試し行動」という言葉を初めて聞いたとき、自分自身の幼い頃を思い出して、そんな時期もあったかなと振り返ると同時に、どことなく腑に落ちないモヤモヤとした気持ちも抱いた。

あとから思えば、確かにあのときは寂しくて自分の方を振り向いて欲しかったのかもしれないと思えたり、どこまで自分のことを受け入れてくれるのか試したかったのかもしれないと考えたりすることもできるけれど、渦中にいるときはただ衝動的なだけで、相手のことを試そうなんて意図的に思っているわけではない。だから「試し行動」という言葉になんとなく違和感を抱いていた。

そしてこの違和感をスッキリと霧が晴れたような納得感のある言葉にしてくれる人に私は昨年出会った。

ある研修を受けたときのこと、その研修の講師の方がこの「試し行動」という言葉を「ガス抜き」という言葉に置き換えていた。

私はこの「ガス抜き」 という言葉を聞いた瞬間、いままでなんとなく抱いていたモヤモヤが一気に晴れた気がした。

私たちはこの社会の中で、たくさんの人と関わりながら生きている。そして、その中でときには理不尽な態度を取られたり尊厳を傷つけられるような扱いを受けたりすることがある。まるで「毒ガス」に侵されたような気分になる。

こんなとき毒ガスに侵された私たちはどこかで「ガス抜き」をしなければ生きてはいけなくなる。

だからこそ、この人こそはと思える人の前では「毒ガス」をあびた分だけ、きれいな心地よい空気で包んで欲しいという気持ちから、大人からみると「試し行動」とも思えるような相手の気を引くような行為をしてしまうのだと思う。

この「ガス抜き」の期間は、自分自身の過去を振り返っても、対人援助職として仕事をしているときを思い返してみても思い当たる場面が多々ある。そして、この「ガス抜き」の期間は、毒ガスをあびた人にとってはなくてはならないものだという風にも強く感じている。毒ガスに侵されたままでは私たちは上手に生きてはいけないからだ。

社会で生きる中であびた「毒ガス」は、社会の中の誰かが受け止めて「ガス抜き」をしてくれない限り、その人の中からは消えない。ゲームや音楽で紛らわすことができたとしても、消すことができるのは血の通っている人間でないと無理なのではないかと私は感じている。

だからこそ、毒ガスをあびた人にはおもいっきり「ガス抜き」をして欲しいと思うし、毒ガスをあびた人の身近にいる方々には「ガス抜き」が始まったら広い心で「ガス抜き」のお手伝いをしてもらえたら嬉しいなと思う。

実際には大変なこともたくさんあるけれど、それも含めて「良い思い出」と誰もが振りかえれるような社会を実現できたらいいなあと私は思っている。

この記事は2018年3月1日に下記のサイトで投稿した記事の転載です
https://izimedarake.hatenablog.com/entry/20180301/1519912419

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