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信じる強さ。信じる脆さ。
まえがき。一年前のあの日
頭の中に、大いなる衝撃をもたらしたあの日
なんかめっちゃ面白い人に絡まれました。
— トゥーンベリ・ゴン (@damarekozou35) February 1, 2021
※DM掲載許可あり。 pic.twitter.com/cb27SW0gxO
若き綺麗な瞳からは想像もつかない程の冷めた目に、人々のおかしい程の情熱を重ね合わせた瞬間に、僕はなんとも言えない衝撃を受けたのだ。
まるで科学者が大発見をしたような、しかし一方で、まるで焼け野原に立っているような、そんな矛盾が頭を襲った。
どの車より速く進んでいるはずの車が、実は動いていなかったと気がついたときの焦りのようでもあった。
それは、信じるという行為そのものの、根本的な欠点を、誰もが知っているであろう漠然とした欠点を直視した瞬間であった。
変わらない日常と、変わり続ける夢。その先に見える、変わらない夢のような日常と、変わらない現実のような日常が、ずっと重なっている事実。
信じるとはなんだろうか。愛とはなんだろうか。思春期とはなんだろうか。生きるとはなんだろうか。ふと、私は考え込む羽目になった。考える余裕もなかった。
何かを発見した大きな喜びと、大きすぎる常識の否定の間で、心の中の赤ちゃんは確かに泣いていた。
あれから一年がたった今。もう一度考え直してみたい。
大人で有り続けようとする人々の悲しみ
当時、僕はそれを精神年齢という言葉で説明しようとした。
それは偉大なる母の精神の源であった。フェミズムの底力であった。
— 茶化し隊 (@voyq1VVrzPRzn3W) February 1, 2021
私が命を懸けても尚取れようもない完成された力だった。
成熟した精神が生む世界観、、、というよりは、僕は成熟した価値観が、知識と言う殻を産み出している、と言う指摘がしたかったのだ。
当時は女性に限定して書いたものの、今思えばそこに男女の差はない。当時のは余裕のない書きぶりなので、そこは今訂正しておこう。
さて、世界にはいろいろな夢を語る人々が、Twitterには居る。大学に入りたいとか、絵師になりたいとか、警官になりたいとか、医者になりたいとか。
もっと大きな夢を語る人もいる。起業したいとか。しかし、庶民の想像の範囲内で一番大きな夢の一つに、やはり国家の形を変える。というものがある。
夢が大きい人、というのはある意味わかりやすい人種で、その大きい夢を見なければいけないと、潜在的に理解している節がある。
例えば、何かが不足していたら、その不足した物を補いたいと思うだろう。ダイエーの社長も、最初の夢は戦場で見た、家族と一緒に沢山温かいお肉を食べる夢だったそうだ。
今思えば取るに足らない夢でも、当時からすればそれはそれはとても大きい夢であったことに違いはない。
そういうことに不足を覚えてる人、不満を覚えてる人ほど、大きい夢を見たがる。
そして、彼らはまさにその現場を目の前で見ているのだ。
今何が足りなくて、今何が余っているのか。それはその現場を見た人が、部分的には一番の物知りになり得るのだ。
そこに何かが足りないというものを、感覚で何となく理解している人達が、誰よりもその現状を伝えたいと願っているし、だからこそ言葉を選ぶ暇さえもなく発信を続けている。
そういう人が、思想の陣営を問わず、沢山存在している。それがTwitterである。
一方で、この世の中にはそうでない人々がいる。
普通の日本人、、、ではなく、普通の人。政治用語でいう所の無党派層だ。
敢えて悪口を言うなら、自分の生活空間にこもっている人だ。
大きいものを見ようともせず会社や学校、居酒屋やカラオケ店、果ては旅行先に籠もっている。
多少の金があり、世界の流れではなく偏西風の流れが飛行機の中で気になっている人々とも言い換えることができる。
今、僕のこの文章の中で、2種類の登場人物がやっと出てきた。
そう、不満を覚えてる人と、そうでない人だ。今に満足しているか否か。
言い換えるなら、満足度の違いが、世界の違いを作り出しているのだ。
この満足度の違いは、どういう行動の違いを促すだろうか。
結論から言えば、不満を言う時間が違う。不満がある人は理想と対比するように不満を描き、不満がない人は現実の中に小さく不満を見出すのだ。
ところが今の若い子の中には、もう一つ特殊な人種がいる。現実を見て、その中に些かの不満も見出そうとしないか、見つけても誰にも公言しない人達がいるのだ。
私に言わないだけかもしれないが(笑)
しかし昭和世代の激動を見れば、恐ろしいぐらい静かである。と私は思ってしまう。
その静かさを支えているものの一つに、確実にSNSがある。
人々が思うように自分を切り離し、あろうこうとか切り崩そうとしていく人までいる。
この世界には状態という概念がないのだろう。動画ではなく写真の方が価値があるのではないかと錯覚してしまう。
では、この三種の人種に、果たして違いはあるだろうか。
答えはないのである。人々が生きるために、合理的だろうと考えた結果がこれである。
人々には違いがない。ではどこに違いがあるのだろうか。結論を言えば未来にある。
圧倒的絶望が現状なら、おそらく希望が未来にはあるはずだ。
圧倒的希望が現状なら、どこかで息詰まると予感できる。
では、絶望も希望もない人間に、未来は予想できるか?正解は不可能である。
AIの進歩が豊かさに影響する様になるには何十年もの月日がかかる上に、コストも未知数だ。ファッションや歌に至っては、もはや豊かさに影響を及ぼせなくなった。
そういう時代の生き方というのは、実に冷たいものだ。圧倒的な社会の進歩に甘えるような反抗期も、新しいものへの好奇心も湧くことがない。
何気ない日常的な道具の中で、何気ない夢を持とうとする。あるいは堕落的な夢に落ちることさえある。
日常的な生活をし、日常的な歴史を歩む。こういうのも夢だが、正直言えば現実的すぎる。夢というほどのワクワク感を持って夢を語っているのか。僕は疑問に思ってしまう。
ネットミームというものもある。確かに面白いものもあるが、適当な合言葉を何度も繰り返す遊びが面白いなんて発想もここ10年のものだろう。
例えアニメの名言が何度囁かれようとも、大抵の場合はアニメのストーリーが頭に入っているのではないだろうか。
要するに自己というものに対して、私はとても強い分断を感じざるをえないのだ。
誰のためにしているのかがわからないアドバイスみたいなものである。哲学がないのだ。
そういうのが繰り返されているのが面白くない。これは今の人間に思うことである。
しかし一方で、信念があれば良いというわけではないということもまた教えてくれた。
ネットを見ていると色々な思想が飛び交うが、どれもその思想の正しさが始点になって、また思想の正しさが終点になってる様に思う。
あれこれ愚痴を書いたが、それは私の思想である。愚痴でない部分がこの文章で言いたいことなので、とっ散らかった私の頭を覗き見るつもりで読んで欲しい(笑)
信じるという行為と、懸念点
ここまで長ったらしく文章を書いてきたが、一言で要約すると、要するに循環してしまっているのだ。
これはある意味で日常と似通っている。
いや、日常は有益な面があることを考慮すれば、それよりタチが悪いかも知れない。
ここで、私は今までに二つのレイヤーと、三つのキャラクターを出した。
レイヤーとしては、考え方と因果関係が二つ。
キャラクターとしては、夢の大きさを三つ出した。
つまり、因子としては六個ある。
僕が懸念するのは複数ある。
一つ、現代人の夢というのはなんだかとても現実的なことだ。確かにそれで満足がいくレベルには技術は発展した。
しかしこれから先、さらに加速するであろう進歩に対して、あまりに夢が小さすぎる。
二つ、世の中の体たらくに絶望する人がすがる理想というのは、確かに一見美しく見えるが、何かが根本的に欠落している。それも怖い点である。
難しくなることが確定な未来に対して、思考があまりに単純すぎる。
三つ目は、多少の不満を抱えつつ日常を生きる、、、という体験が徐々に減少するであろう事実だ。
多少を超えた不満と、多少の不満もない生活のどちらかに二分されてしまうことで、その間を埋める対話が難しくなる。
そしてこれら三つの懸念が同時に来たときに、僕はこう考えたのだ。
夢や脳内で解釈され、単純化された現実というものにあまりにも信仰深く固執していると、小さい生き物しか生まれず、対話が萎んで社会が失われてしまうのではないかと。
これぞ永遠の負けと言って相応しい。論争なんてしている場合ではない。
そうではないのだ。鋭い指摘も必要だが、深みのある対話も必要なのだ。
腐り切ってるけれど、油も乗ってて美味しい愚痴を聞くのも適量なら健康には悪くない。
そういうのがないのだ。愚痴までクリーンでどうする。あるいはブラックしかない。程度を知らないのかと思ってしまう。
そういうのがたった30分のうちにたかだか15の男子の頭に詰め込まれたのがあのときである。今も不自然だろうが、当時よりはわかりやすいはず。
というわけで書いてみた。今の複雑なネット言論空間に、小さな一石を投じてきた。エコチェンバーにあきて、コウモリみたいな生活を送りたくなった諸君や、信じる思いが強すぎる人、なにもわからない人や、政治色の強い人に抵抗の在る人、色々な人のヒントになることを願って。