壮大なドッキリは、いつから始まったのか
白饅頭氏の記事の中に、立憲民主党の選挙結果に関する記事がある。
世論調査の上では高かったはずのジェンダーへの関心は、一切選挙の結果に出ることがなく、立憲民主党は未だ野党である。という現象を分析した記事であるが、では、そのドッキリは、日本においてどこから始まったのだろうか。
私は、その原因は団塊ジュニアの世代にあるのではないかと睨んでいる。そしてそれは、さらに遡れば、国民国家の求心力低下、日本においては、それは終戦にまで遡る。その壮大なドッキリが、一切の物音を立てずに始まったのである。
空虚なる「自由」を与え続けた社会
戦後日本のキーワードは、一にも二にも自由がキーワードだっただろう。
朝鮮特需に六十年安保、成田闘争、高度経済成長期。池田勇人内閣の乗数理論に支えられ、活発化する民間投資、そして東京タワーに新幹線。
終戦直後の荒廃した日本が復興し、急速に成長するという猛烈なパワー。
戦後の始まりは、そんな力に支えられ、自由と華に彩られていたと言っていいだろう。
だが、そんな時代において、当時の子供は何を考えていただろうか。彼らもまた、そのパワーを多分に受け、あるいはそれ自体を反発の拠り所とした。
17の夜、盗んだバイクで走り出した、が歌われた頃である。何をするにもパワーが全てだった。そのパワーの根底には単純な反抗心があったのだろう。その反抗心は、いつの間にか自由の意味を乗っ取ってしまった。
そんな折に、バブル期が来てしまったのだ。
圧倒的な自由。圧倒的な資金力。六本木のカローラに、トヨタのセルシオ。
ジャパンアズナンバーワンの掛け声は、70年台の子供たちの反抗心と、戦後直後の世代の圧倒的なパワーによって、ついに完成を見せたのだ。
だがそれは詰まるところ、55年体制という妥協の産物でしかなかった。
確かに技術的進歩は事実だったし、日本企業の力は本物だった。しかし、あの頃の熱狂というのは、その高い評価と比較しても、あまりにも高過ぎた。崩壊することは必然だった。
1993年。バブル崩壊。人々の夢はついに潰えたのだ。ドッキリは、唐突に明かされた。
反抗心が子供を育てた時代
そんな93年ごろに、子供から大人に変わった世代がいる。現代の氷河期世代だ。
70年当時反抗心たっぷりだったであろう世代に、自由に育てられた、、、と言えば聞こえがいいが、熱狂に教育を押し付けていた世代に育てられたのだ。その惨状は悲惨だった。
哲学のない教育。又の名をゆとり教育という。元来70年代当時の教職者組合が提唱した考え方は、30年の月日の中で、形をかえ、徐々に悪化していきながら浸透していった。
そんな中でも、努力できる人は、個人レベルでこそその惨状を乗り越える力をつけていた。
だが熱狂は、大人の目も誤魔化すのだ。子供が騙されないわけがない。
大多数はその熱狂という毒を飲んでしまっていた。
そして何より、それを社会が飲んでいる事実からは、もはや誰も逃れられなかった。
必要なものが何かもわからず、熱狂の残骸だけが食い物だった。
自由に生きていくというキャッチフレーズと、百円ショップの語感のよさの受け入れは、きっとその残骸があってこそのものだったのだろう。
ゆとりと高度教育の両立。それはついに第一次安倍政権において、崩壊が認定された。
2002年からの、21世紀の時代と謳われた本格的なゆとり教育は、蓋を開ければ70年代当時の反抗心のある子供たちの夢の残骸に過ぎなかった。
それは、結局20世紀の夢でしかなかった。おとな帝国ここに極まれり。
ゆとりという蔑称
「最近のゆとりは使えない」そんな悲鳴をあげる職場の人々がいる。五月病で辞めていく新人、わからないでフリーズをする新人、それに嫌気が差す、30代、40代の、準ゆとり世代の方々の悲鳴である。
バブル崩壊を自己責任のそれと片付けることができる側の、強者の悲鳴は、底辺の底なしTwitterにまで響いているのだ。
一生懸命に勉強をし、大学に入った猛者たちは、なぜ会社という空間においてその能力を発揮し得ないのか。
勿論それは少数なのかも知れない。しかし、その少数であるはずの方々を例にとって、どうしてゆとり世代という全体への批判へと繋がるのか。
現実を見て行動をする。という言葉が、悪魔の呪文とかしているからではないだろうか。
反抗心を持って育ち、知性を願って働く大人たちの願いは、最悪の形で願ってしまった。
講師の何気ない一言に隠れた社会の真理
さて、先日の事である。とある用事で私はある塾で授業を受けた。
その講師はそこそこ有名な講師なのだが、このような俗塗れの記事で情報を出すのは憚れるので、早速本題に入る。
その講師はヤンキー校で教師を務めた経験があるらしい。その経験に基けばヤンキーより、たった一点を除けば、今この講義を受けてるものは大学入試に挑む素質があるはずである。そう断言できるらしい。
その一点とは、自信である。そう講師は語った。
講師の経験によると、ヤンキーの生徒に早稲田に受かるぞ。というと、当然っすと返ってくるらしい。ものすごい自信だが、実際に受かった生徒もいたと言う。リアルドラゴン桜である。
根拠なき自信、と言えばそれまでだが、それ自体が重要である。とも考えられる。
さて、この界隈において、「あいつがモテて、どうして俺が」みたいな意見を聞くことがある。
根拠もなく成功を確信するバンドマンは、社会において嘲笑の対象であるはずなのに。と。論理的に考えれば、それはおそらく正しいのかも知れない。
一方でこの講師が語った内容には、ある一つの真実が隠されている。
持たざる者の最大の担保(資産)は勇気、蛮勇であるということだ。
嘗てイギリスからの独立を果たした13州が、フロンティアを開拓し、最後には石油掘削のために荒地に飛び込んだ蛮勇の集合体。
それこそが今日の世界覇権国たる米国であるという端的な事実がそれを示している。
さらに言えば、シリコンバレーこそが、その蛮勇の根源たる17世紀の石油資源獲得競争の舞台なのである。
蛮勇は今や、世界の基幹産業を作り上げた。これは紛れもない事実である。根拠なき自信は、単にモテるための架空の道具なんかではない。根拠なき自信(と大量の血と涙)の上で我々は現実の営みを続けていたのだ。
勿論それは、時として嘗ての日本が行った大東亜戦争に代表されるような理想に満ち溢れた無謀さを孕み、時として冷静さも必要である。ということは付け加えておこう。
未来を切り捨てる言説
さて、今まで私は、見出しの一番、二番、四番において、自由、あるいは蛮勇を語ってきた。強烈な反抗心は、戦前の気迫と共に社会を一気に押し上げたものの、社会が無責任に語る自由の強さは、割れる寸前の風船と変わらならかった。
、、端的に書けばこう言うことになる。
一方で、現代の政治思想というのはどういうものだろうか、SDGs、個人の自由な生き方、或いは、社会からの解放。マイノリティへの差別意識の、究極の撤廃。
これらの思想は、今に着目した発想であると筆者は考える。
今を楽しみ、今を永遠に持続させるために必要なものを、単なるリストに列挙したに過ぎない。そう断言し切ってもいいかも知れない。
蛮勇とは、即ち未来に対して無謀であり続けるという思想である。一方で、社会が保障するべきという論理で語られる自由というのは、今を個人が無制限に規定する権利を得られるべきである。という思想なのだ。
絶対的個人が頂点にあり、その個人のために、奴隷としての社会が存在する。
あるいは、他人とは絶対的に壁があり、その壁を総称して、我々は社会と呼ぶ。
これらの思想の注目するべき点は、個人が負える責任、負えない責任の規定の仕方が複雑であるということだ。例えば、子供を産めない環境の定義だったりする。
「大学に行かせられないなら子供を産むべきじゃない」「ハラスメントにならないかどうかがわからないなら、一切話しかけるべきではない」「すべての責任を負えないなら、他者の生き方に一切干渉をするべきではない」
これらの言説は、説得力があるし、ある視点で見れば確かに正論である。
一方でこのような反論もできる。例えば精神科医は確実に患者の人生の全責任を負う能力はないだろう。
歴史上の全ての人物を対象とするなら、大学に行っていない人類の方がはるかに多い。
また、ハラスメントになるかどうかは関係性の問題である。
これを踏まえた上で、現代において関係性の構築が村社会的な義務から、権利に変わったことで、誰とも繋がれない人が増えている事。
娯楽が多様化したことで、人々の共通の話題が大幅に減っていること。
事実から目を背け、不快な議論から遠ざかろうとしてるのが今の日本だと思う。
リスクのある行動は全て悪である。誰かを不快にさせないことが一番重要である。
何も筆者は積極的に不快になる行動をしろと言ってるわけではない。勿論何かを強要するべきでもない。
(当然だが)セクハラはするべきではないし、そもそも強要行為は強要罪に該当する。
問題は、現状の社会において、今の課題について考えるという事を社会にいる我々一人一人が考えないなら、いったい誰が考えるのかというリアルの問題と、蛮勇の否定は、社会に究極のリスクをもたらすという点である。
例えばだが、年金制度は確実に出産を前提とした制度設計だろうし、そうでなくても介護問題には手をつけないといけない。出生率向上か移民政策かどちらかを取るかどうかは国会で議論しないといけないだろう。
国会で議論をしないといけないということは、潜在的に国民にはその判断をする義務があるというのと同義である。なぜなら日本において、有権者は=で国民だからだ。
だが今の国民は不快な議論をしたがらない。なぜなら不快な議論とは、未来の議論であり、同時に不確定だからだ。規定できない内容について話すということは、それ自体が無責任であると考えているのだろう。
しかし、絶対に規定できる範囲での改善など底が知れている。それに気が付かず、ジェンダー問題のみを争点にしたり、未来についての議論ではなく、今をどう規定するか、今をどう見るかに終始することをよしとすることこそが、究極のドッキリと言えるのではないだろうか。
まとめ
戦後の劇的な成長は、詰まるところ戦前の狂気と嘲笑われた人々の活力が、プラスに働いた結果の産物だった。
それに気づかぬ団塊世代が、自らの反抗期を子供に重ね、空虚な自由を与え続けた。
自由の意味を今に求めた団塊ジュニアは、今、親世代の夢を具現化したゆとり教育の負債に苦しみながら、なおもドッキリを続けようとしている。
このドッキリは、時を追うごとに巨大化し、いつかはそれを明かせぬまま国が沈没してもおかしくないだろう。
おまけ
ゆとり世代の後に出てきた、さとり世代。何かもを悟り、現世にさえ自由の意味を見出さなくなった世代。この世代がどうなるかが、今後の日本の鍵だろう。
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