「たま」
昔・むかし、人類(ひとびと)がまだ猿にならなかった20世紀末。
地球の隅っこに、「東京」という大きな都会があった。
摩天楼(びるじんぐ)が建ち並び、ひときわ高い鉄の塔から見晴らすと、東と西と北は目の届くかぎり凝固土(こんくりいと)の道路が走り、何百万ものいらががひしめいていた。
南は湾に面して大小の河川が流れこみ、油紋をうかべて、陽の光をギラギラと、照り返していた。
港には無数の船やはしけが出入りをして、米や油をはじめ世界各国からの舶来品(はくらいひん)を、陸揚げしている。
昔・むかしのそのまたむかしには、「おはよう」「こんにちは」と辞儀を交わしたものだが、近頃流行のあいさつは「24時間たたかえますか」というテレビCM。
夜になると、巷(ちまた)には青い灯・赤い灯が点(とも)り、人々は男も女も美しく着飾って街へ出た。
カラオケ・ディスコ・ライブハウスとこれも舶来語かちゃんぽん語で呼ばれるたまり場に、老いも若きも集まって、好き勝手なうたを唄い踊る。
深夜営業のレストラン、朝まで生TV、明け方の路上を肩を寄せ合い、ラブホテルに消えてゆく・・
街は眠らず、夢みなかった。
飽食と荒淫の都、人・それを繁栄と呼ぶ。
文明が石をパンに変える、”近未来”を信じて、際限もない浪費に人々は明け暮れ、ぼうだいな残滓(ざんし)を日々排泄した。
塵芥(じんかい)は山となり、海に投棄されて島となった。
(「たま」の本 竹中労より抜粋)
※
1989年11月11日 筆者25歳・・
突然、ひょっこりひょうたん島のようにブラウン管に登場した『たま』。
イカ天(平成名物・いかすバンド天国)は最も好きな番組の一つだった。
特にお気に入りは『人間椅子』と『BIGIN』!!
奇妙な扮装の四人組?ウケ狙いか?
「舶来品に勝るマダムソース」の前垂れを巻いたブリキ?の太鼓?湯桶・空缶・古鍋のドラム?ゲゲゲの鬼太郎みたいな河童頭のボーカル?無表情なベースギター?なよなよとした気持ち悪いアコーディオン???何だ?これは?
と思う間もなく二度びっくり!いきなり甲高い声を張り上げてイヨーオオッ・ポン(湯桶)♬あんまりの心の寒さに〜・・
一発目の楽曲は『らんちう』だった。
一瞬にして、ぼくは彼らのとりこになった。
審査員達も面食らっていわく、「オリジナリティがある」(吉田健)「こういう音楽は判ったと言っちゃいけない」(グーフィー森)「動機のない盛り上がりが圧倒的、歌詞も現代詩っぽくて」(鴻上尚史)
もっとも素直な感想を述べたのはオペラ歌手の中島啓江だった。
「凄い。音程は確かだし、愛おしい歌、涙が出ちゃった」
そう、僕も涙がこぼれた。
ベストボーカル賞、そしてイカ天キング(票決4対3)
以降4週まで満票、僕はテレビの前に釘づけになり毎週、次の曲を待った。
※
あれから30年が経って僕は50歳を超えた。
「たま」のメンバーもほぼ僕と同年代のはず・・
人間は未だ猿にはなっていないが、劣化し続けている事だけはわかる。
彼らの曲を聞くと自分の青春時代が蘇る。
いつでもタイムマシーン(YouTube)に乗れるのだ。
「たま」はイカ天を足掛かりにスターダムに祭り上げられていった。
あの頃、そう日本中が浮かれまくっていたバブルの時代に自分の才能を過信してふてくされていた若者がブラウン管の中に観たのは自分の分身だったのだ。
そして、今になって良くわかるのは「たま」というバンドはウケ狙いのポッと出のニワカバンドなんかではなく10年アングラスタジオで腕を磨き続けた天才達の集まりだったという事である。
あの頃の自分はいったい何をしていたというんだろう?
何の努力もせずに世の中に対する不満ばかり言ってたような気がする・・
「たま」はそんな事を思い出させてくれた・・
・・おしまい・・
【参考】pokoblog