桜にまつわるいい話②
17世紀、神々に守られた小さな島を訪れたポルトガル人が思わず言いました・・
「フォルモッサ!(美しい!)」
「ご飯食べた?」
これが日常の挨拶である優さに溢れる島・・
島の何処に行っても明るい笑顔が溢れている島・・
そう、今日は台湾に関するお話です。
日本人ならば知っておくべき桜にまつわるエピソード其の二です。
では、では・・
今回紹介させていただくのは桜を世界一愛してくださっているあるおじいさんのお話です。
えっ? 何? 世界一?
「世界一」という言葉に多くの方はこう思われたのではないかと思います。
いくら何でも世界一は大袈裟過ぎだろ‼︎日本人はみんな桜は大好きだし、私も大好きだと・・
お気持ちはとても理解できます。
しかし、これを読んでいただけば、それが決して大袈裟な表現ではない事を納得して下さると思います。
台湾の内陸部に位置する南投県埔里の町。
この町には王海清さんという多桑(トオサン)がいます。
多桑(トオサン)とは現在の台湾において今でも日本語が話せる人のことを言うのです。
もちろん日本語の「父さん」という言葉に台湾語を当て字したものです。
多桑(トオサン)たちは、「教育勅語」を当然のように空んじ、数々の日本の歌を流暢に歌い、日本統治下の公学校で教えられたとする、「礼儀」「正直」「勤勉」「人間愛」「清潔」「時間厳守」「約束を守る」「犠牲的精神」を頑なに守り続けている日本人以上に日本人な人たちなのです。
王さんも日本統治時代に国民学校で6年間、日本の学校教育を受けました。
王さんの家庭は経済的にとても貧しく親には学校に行かないで働くように言われていたそうです。
しかし、どうしても勉強をして立派な人間になりたいと思っていたので、必死に国民学校(現在でいう小学校)に行きたいと親を説得し畑仕事を手伝うならという条件付きで許可されて6年間国民学校に通うことになりました。
学校に通えることが嬉しくて嬉しくてたまらなかった王さんの心に最初に響いたのは、国語の教科書にのっていた「サイタ サイタ サクラガサイタ」という言葉でした。
子供心に、まだ見たこともない桜へのあこがれが、このとき芽生えたといいます。
公学校を優秀な成績で卒業すると台中州林業試験場埔里分場に就職し、種苗科に配置されました。
しかし、大東亜戦争が始まってしまいます。
昭和19年、王さんは志願兵として、高雄の海軍陸戦隊に入隊しました。
王さんはこう語ります、あの頃こんな歌をよく歌ったよ・・
『貴様と俺とは 同期の桜
同じ高雄の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょ 国のため』
パッと咲いて、パッと散る。
サッと散るのは、お国のため・・
歌って、思って、考えてみた、これが桜にこめた日本人の心だ・・
戦争が終わり戦後まもなく、王さんが移り住んだのが霧社でした。
そこには、日本人が植えた桜が、数百本も残っていました。
それが、王さんが生まれてはじめて目にした桜でした。
「桜を見た、嬉しかった。ああ!!これが桜だ!!と思った。」
ところが、王さんにとって悲しいことが起りました。
蒋介石の国民党政府が桜は日本の残滓として忌み嫌い、道路拡張などを理由に全て伐採してしまったのです。
王さんはそれが残念でたまりませんでした。
そこで、村の役場や有力者の人々をあつめて、桜を植える相談が始まりました。
だれが何本、だれが何本と、一応、桜再生の相談はまとまりました。
しかし、いつまでたっても、だれひとりとして、桜を植えようとはしません。
王さんはひとり、誰にも告げずに日本人が植えた桜の種から育てた苗を、霧社から埔里への沿道に植えはじめました。
種苗課で働いた知識が役に立ちました。
一本、また一本と王さんの桜は日増しに増えていきました。
それでも他の人は誰も桜を植えようとはしませんでした。
継続は力なりです。
王さんの植えた桜は100本、200本、300本、とどんどん増え続けていきました。
「働いて稼いだら桜を植える。私は桜を植えるために働くよ。」
王さんの桜を植える事へのこれほどまでの執念はどこから来るのでしょうか?
もしかすると、そこには青春時代を日本人として過ごした王さんの郷愁に似た想いも込められていたのかもしれません・・
また、自分と同じように桜を愛し、ともに肩を抱き合い「同期の桜」を歌い、桜のように悲しく散っていった戦友への慰霊の意味もあったのかもしれません・・
王さんの桜はどんどん増え続け、ついには埔里から霧社までの約20数キロの沿道はすべて王さんの植えた桜で埋め尽くされたのでした。圧巻です‼︎
植え続けた桜の数の総数はなんと、3200本に達していました。
やがて大きく育ち、白や紅の花を咲かせるうつくしい桜たち。
王さんがいつも愛情を込めて手入れをしているので王さんの桜はますますいっそう美しく咲きました。
その桜の美しさに惹かれて、根こそぎ桜の木を持ってゆく人が、跡をたたなくなりました。
桜泥棒です。
抜かれては植え、抜かれては植え、この二十年間で、王さんが「補充」した桜は、なんと1800本にもなります。
あるときは、桜の木を盗んでいるのを見た人が、そのあとを尾行して家をつきとめ
王さんに、「盗んだ人の家をつきとめたから、警察に突き出しなさい」と言いました。
でも王さんは、その人を咎めようともしません。
「盗んだ人もきっと外に植えるだろうから、私がこの道に植えるのと同じ事だ。外に植え、花が咲けばみんなそれを見て楽しいからいいのだ。」
道ゆく人が、桜を植える王さんを見て声をかけます。
「いったいいくらで雇われてるんだね?」
村から雇われて桜を植えていると思うからです。
王さんはこう答えます・・
「月に二万元だよ」
まさか自分でお金を出して桜を植えていることなど、だれも信じてくれないからこのような嘘をついていたのです。
「黙って植えて、桜が咲く。それが私の成功。」
あるとき、自動車事故が発生し、王さんの植えた桜の木のおかげで、当事者が一命を取り止めるという事件がありました。
その事故がきっかけで初めて台湾の人たちはこの事を知る事となります。
なんと3000本をこえる桜の木が個人の私財によって植えられていたことを・・
しかも、四半世紀もの間、王さん一人の手でそれが維持管理されていた事を・・
そして、台湾で個人としては、はじめて台湾交通部(日本の国土交通省に当たる)から、最高の栄誉である「金路賞」を受賞しました。
王さんは、「世のために尽くせと学校で教わったから、桜を植えて恩返し(をしています)。」と語っています。
そして「桜は一番のトモダチ。桜に命を救われた。何度も何度もよ・・」と語ったそうです。
「王さんは、死ぬまで桜を植えつづけるんですか?」
というインタビュアーの問いに王さんはこう答えます
「一度やると決めたことは何が何でもやり通す。それがリップンチェンシン(日本精神)!」
どうです?世界一桜を愛しているでしょ・・
・・おしまい・・
【参考ブログ】『チャカポコ♪の愛国戦闘詳報』
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