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完結後30年たってなお衰えない黄金聖闘士の人気 その鍵は?

「聖闘士星矢」は二次創作の世界でも一大ジャンルをなし、2023年現在もその活動は活発。完結から30年たっていると思うと信じがたいくらいに。連載当時はいったいどれほどの熱気が渦巻いていたんだろう。小学校低学年の私には知る由もなかった……タイムスリップしてあの頃の中学生・高校生に話を聞いてみたい。
 
pixivで「聖闘士星矢1000users入り」、つまり人気の投稿をほとんど見たんですけど(何してるんすか)、割合的に黄金聖闘士ものがめっっっちゃ多かった。想像以上だった。なぜこれほど、主人公グループではないキャラたちが人気なんですかね?(pixiv調べだけど) 
主人公の星矢が人気投票1位にならないのはわかる。「幽遊白書」で蔵馬や飛影がトップなのと同じこと。でも、青銅聖闘士を全員置いていく勢いで、これほど黄金聖闘士たちが人気ってどういうこと?
 
たぶん、それは黄金聖闘士が、やりきれないくらい哀しい存在として描かれているから、なんじゃないかな……
 
※以下、ネタバレと個人の勝手な妄想です。3%腐要素あり。
 
 

「美しく・強く・かわいそう」の3拍子

先日ツイッターで、
「中華BLで理想的とされるキャラ造形は 美しく・強く・かわいそう である」という内容の卓抜な知見が披露されました。

一瞬で「わが師カミュのことやん」って思いましたよね……
初登場時は凛々しい師父、氷河の思い出の中では聖母、アイザックの幻視ではきれいなお姉さん、甦れば月野うさぎも真っ青な美少女戦士。カミュが「美しい」ことには議論の余地はない。もちろん「強い」。
そして、唯一まともに育てられた弟子に殺されるという悲劇性。これを「かわいそう」と言わずして何が「かわいそう」なんだ!?
(カミュがBL的な意味でもトップ人気なのは当然至極……絵に描いたような薄幸のヒロインだからな……)

しかし、一歩引いて冷静になってみると(?)、黄金聖闘士って全員この「美しく・強く・かわいそう」に当てはまる気がする。「美しく」の部分は幅を多少広めに取る必要があるにしても(失礼)、「強くてかわいそう」は絶対に当てはまる。
 

当初、「黄金聖衣」が「黄金聖闘士」も指していた

聖闘士星矢の文庫版と単行本(以下JC)はけっこう違いがあるんですが、一つは「黄金聖闘士」「青銅聖闘士」という呼称がどこから現れるか、なんです。
文庫版で人物を指して「黄金聖闘士」「青銅聖闘士」と言っている箇所は、JCだと「黄金聖衣」「青銅聖衣」になっているんですよ。
 
文庫版④p.165:おまえたちふたりをふくむ黄金聖闘士九人までが女神に忠誠をちかっている にもかかわらず十三年前アイオロスに加担し聖域を裏切ったまま野放しになっている黄金聖闘士がふたりいる
 
JC⑦p.73:おまえたちふたりをふくむ黄金聖衣九つまでがすべて女神に忠誠をちかっている にもかかわらず十三年前アイオロスに加担し聖域を裏切ったまま野放しになっている黄金聖衣がふたりいる
 
……どうですか。
つまり、もともとは「黄金聖衣」が、「聖衣」だけでなく、それをまとう人物を指す言葉としても使われていたんです。
 
境目はJC8巻(88年1月第1刷)・9巻(88年3月15日第1刷)のようです。
9巻からは、黄金聖衣をまとう人物を「黄金聖闘士」と呼んでいます。
ジャンプ本誌だとたぶん十二宮編の終盤まで、「黄金聖衣」の語で人間も指していたはずです。(国会図書館できちんと調べないと!)
 
例に出した教皇(サガ)のセリフから、彼らの非人間的な扱いが感じられるのは私だけですかね?
「おまえたちふたりをふくむ黄金聖衣九つ」……聖衣とそれをまとう人間の境界線があいまいになっている。
 
聖衣はその人のアイデンティティの一部ともいえるし、その人自身が聖衣と分かちがたく結びついている、とも取れる。
それがポジティブな効果をあげている例が、十二宮編のサジタリアスの聖衣が「参戦」するシーン(JC⑪p.38-39)です。
見開きでバーンと描かれており、ただでさえめっちゃ盛り上がるこのシーン、ジャンプ本誌でずっと黄金聖闘士を「黄金聖衣」と呼んできたことを踏まえて眺めると、意味が少し変わってくる。
「射手座の黄金聖衣が聖域に戻ってきた」=「アイオロスその人が戻ってきた」 
という印象(錯覚)が与えられるんです。
(そんな細かい効果を狙っていたわけではないでしょうが……)
 

武器としてのキャラクター・黄金聖闘士

一方で、黄金聖闘士を「黄金聖衣」と呼ぶことで、彼らが「武具」「道具」である、という側面も強調されます。
もちろん青銅聖闘士や白銀聖闘士にも同じことが言えますが、特に黄金聖闘士はその空気が色濃い。それはきっと、黄金聖衣は表面積が段違いに広いからです。
その最たる例がジェミニの聖衣。双児宮で星矢たちを出迎える「双子座の黄金聖衣」は中身がなくても自立するレベルで人型じゃないですか。星矢たちも最初は人間を前にしていると思っているが、実は……という。
青銅聖衣や白銀聖衣ではあの芸当は到底できないですよ。「透明人間あらわるあらわる~」になっちゃう。
まあとにかく、あの場面では「黄金聖衣」と「黄金聖闘士」は視覚的にもぴったり重なっている。
 
女神は武器を嫌うから、聖闘士は武器を持たない。そんな言説もありますが、すぐに「嘘やん」ってツッコまざるを得ないキャラがどんどん出てくる。この空ごとに実があるとすれば、それは
「聖闘士は武器を持たない(自分自身が武器だから)」ということではないでしょうか。
最高品質の防具である聖衣の中身は、「最強の武器である人間」、なんです。
 

「心を持った兵器」の悲哀

全身を覆う黄金聖衣をまとう彼らは、自身が武器なんです。彼らは言ってみれば、心を持った兵器なんですよ。
だから、何度でも甦らせられる。必要に応じて。
冥界で、それまでに命を落とした者が甦り、十二人全員が初めて顔をそろえますが、それは嘆きの壁を破壊するため。彼ら自身の肉体を犠牲として。彼らの体は塵となり、あとには黄金聖衣だけが残る。
……あんな哀しい光景がありますか。
 
しかも、この場面(JC㉖ p.82-83)、最初に防具である「黄金聖衣」が集結し、その後に中身の人物、「黄金聖闘士」が復活するんですよ!
彼らの存在は「聖衣ありき」なんだ、ということをまざまざと見せつけるシーンじゃないでしょうか。……書きながら余計かなしくなってきたやん……
 
で、黄金聖闘士は最終兵器なんだけれども、同時にものすごく個性豊かに描かれている。それぞれに容貌が違い、性格が違い、目的とそれを遂げる手段が違い、歴史を持っている。あるいは、来歴を想像させる言動をする。「キャラクター」としてくっきり立ち上がる人間としての彼らが、兵器としての役割に殉じるから、……余計悲しくなるんやん……
 
 

星矢たち青銅聖闘士との違い

もちろん青銅聖闘士も戦いに生きてるんですけど、いみじくも春麗が「紫龍は戦闘マシンじゃない」と泣くように、彼らには「戦闘マシンじゃない」別の道が残されている感じがするんです……幸せに、ふつうの人間として暮らす道が……彼ら自身がそれを選ばず冥界に赴くけれども、それでも最後には地上に戻ってこられそうな希望がある。
 
星矢たち青銅聖闘士が運命に抗う者たちだとすると、黄金聖闘士は運命に殉じる存在なんじゃないでしょうか。
 

(作中で青銅聖衣は何度もリニューアルして生まれ変わるのも見逃せないポイント。彼らは未完成であり、変化と成長の途上にある、未来ある少年たちなんだ、ということが聖衣の新生からも感じ取れる。
一方で黄金聖衣は全然形状が変化しないんですね。彼らは既に完成されているということです。)
 
 
 
「最強」の称号を与えられながら、非人間的な扱いを受けている黄金聖闘士たちを見て、
「幸せに暮らしてほしい」
「仲よく楽しく過ごした日々があってほしい」
「次によみがえったら普通の生活をしてしょーもないことでドタバタしてほしい」
「〇〇と△△には永遠に××でいてほしい」
とか考えるのはごく自然なファン心理でしょう。
 
作中のどうしようもない切なさが、完結して数十年たっても衰えない二次創作熱につながっているんじゃないか、と私は見ています。

……もちろん純粋にありがたく拝ませていただいています。絵がうまい人うらやまし――――!! お話し書ける人うらやまし――――!!
  
 

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