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シンドラーのリスト

※機嫌が悪い。読まない方が良い。

シンドラーのリストという映画を最初の40分だけ視聴して、後日。映画の続きを観ようとした時にふと思ったことがある。

別に生きる理由にはなってないな。

いわゆる推しに対面し、生きていることを実感したり、ライブに行って心を動かされたのは紛れもない事実なのに、私はカムバからライブまでの1ヶ月、心のどこかで「早く終わらないかな」と思っていた。

なぜか。

多分途中から「やらなきゃいけなかった」からだ。やるからには全力でやりたい。行くからには全力で楽しみたい。どうせなら後悔のないように本気でやりたい。

ベスト盤発売日から激闘は始まった。
タワレコに4時間近く並んで特典は13人全回収に成功し、ラキドロは4枚手に入れ、欲しかったものに全て交換した。DIAR版のランダムトレカ13人×4枚もコンプリート、バインダーもコンプリートに奔走し、成功。
横浜スタンプラリー企画は最終的に29ポイント集め、推しの自引きに成功。鳥貴族のコースター、これも友人を引き連れ12枚手に入れ、1人を除く他メンバー被りなしで揃えることに成功。仁川トレカがこの辺で配送され、ほぼ全て推しに交換した。SUNTORYのレモンスカッシュ缶についても同様。
ライブに行くとなれば、自分が思う持ち物ではなく人が書いた持ち物に沿って用意し、誰にかは分からないけど負けたくない一心でうちわやペンライトを用意した。
結局取れなかったにしろ、日産両日分のチケシェアは暇さえあれば永遠に見ていた。ここ数年でこんなにスマートフォンを手放さなかったことはない。

明確な"ここから"の線引きはないにしろ、自分の欲とは別にいつからか"義務感"が存在していたように思う。
これは自分のペースではない、本当はこんなに早く走れない。走りたくない。でもやるからには全部全力でやりたい。誰にも負けたくない。多分私のこの"誰にも"はいつだって全力を尽くせなかった自分のこと。他人が指標なら抜いたり勝ったりする事が現実的に可能でも、相手が自分の場合その日は永遠に来ないというのに。

座右の銘の1つに「大は小を兼ねる」がある。

全力でやっておけば後で後悔しないはず。全力でやったって後悔することがある。手を抜いたつもりはなかったのにあとから思えば"なんでやらなかったんだろう?分かってたら出来たじゃん"。絶対作りたくない。そんなこと。いつでも全力で走りながら、後から思い出しても正当化に成功しそうな"あの時走れなかった理由"を探している。

生きにくい完璧主義。
自分が1番わかってる。

トレカの交換は発売された日が1番しやすくて、確率はどんどん下がっていく。目に見えてる。ましてや自分の推しは高レート。毎日Twitterにかじりついた。
自分のやりたいこととは別に義務感が生じていることに目を背けて走り続け、ライブが終わり落ち着いた今。

やっと終わった、と思う。

誰にも文句を言わせないくらい本気でやりきったと思う。客観的に見た自分にも「あの時気抜いてたでしょ?」という期間はない。今全部が終わったから、走りきったからこそそう思う。いわゆる"燃え尽きた"が他の人より顕著なだけだ。じゃあやりたくなかったってこと?って話ではない。ここでその感想が出てくるなら何も伝わっていない。やりたかったから全力を尽くすことになったという話をしている。

少し疲れた。

冒頭なぜシンドラーのリストが引き金になったのか。
最初の40分を見る限り、主人公シンドラーは自身の幸福の為だけに戦争を利用し、安価で迫害民族を雇用するいわゆる自分勝手な人間として描かれている。

私は本当はあのように生きたいからだ。

実際の私はたった1つの小さな嘘にも永遠に恐怖感を抱き、周りの人間の目をいつも気にして、他人の幸福が成り立つのなら自分の幸福は後回し、しかもそれを「人と関わるのが好き」と都合良く正当化する、自己肯定感の低い自分のことが1番嫌いな小さな薄っぺらい人間。

私はシンドラーのような人間になりたかった。
自分の幸福の為ならどんなことも惜しまない、気に留めない。自分のことが大好きな、己の為だけに生きている人。憶測に過ぎないし言葉は強いけど、物語として成立しているということはきっと映画が進むにつれて彼の人間性は丸く、他人に迎合していくんだと思う。それが社会において不正解で間違いで許されないとしても、私は今時点のシンドラーが好きだ。

彼は自分の為に生きていた。
私も自分の為に生きたかった。

SEVENTEENが好きだから生きたい。SEVENTEENを好きな自分が好きだから、自分がそうしたいから生きる。
そうなりたかった。
でも私は、人間に生まれた以上生きなきゃいけないから、この世が定義する普通の人間のふりをする為にSEVENTEENを好きでいることにしただけだ。
本当は好きじゃないってこと?そう思う人がいるのならもう読むな。私に二度と関わらなくていい。

誰かからしたら同じことなのかもしれない。
強い言葉を使って説明するのなら、自分が死にたくなった時に"でもSEVENTEENがいるから生きられる"とはならないって事だ。多分自分が優先される。彼らがいても私は自分のことを許してあげられないって気がついてしまった。終わらせたいなら終わらせられる。

不思議だと思う。

本当に終わりにしたかった時、「もう終わりにしたい自分を許してあげたい 」と思ったはず。でも今は「自分のことを許してあげられないから終わりにする」と思うこと。

自分の中には自分が何人もいて、他人に優しくすることで他人の中に自分の居場所が出来たことを素直に喜ぶ自分もいる。なぜ1人でいることに意味が無いと思うのかを人に聞かれた時、他人を介してでしか結局人間は成長出来ないからだと答えたはずだ。実際そう思う。でもここでは他人より自分を優先させる人間に憧れを抱く自分を自覚している。

私が1番苦手なことはきっといいバランスを見つけること。白か黒か、不正解か正解か、いつでも見つけようとしてしまう。バランスを見つけるには永遠に考え続けなければならない。社会における全ての事象は"現在進行形で考えている"ことしか免罪符にならない。悩み続けることは辛くて大変で終わりがないことが多い。でもこれまた不思議なのは、いわゆる独裁者達は白か黒かを自分で導き出していること。私は彼らに憧れながら、彼らと同じことが得意。

独裁の相手が他人か自分かの違いなのかもしれない。
完璧主義は自分への独裁。だから生きにくいのか?
他人への独裁は他人を介して行われるので、他人の考えや視点で解釈され、"独裁"と名付けられるから間違いだと定義される。でも自分への独裁は自分の視点でしか解釈されないので間違いだと定義されにくい。

そうなると、やっぱり独裁は間違いで、この世はバランスが大事って結論に帰結することになる。

例に漏れず何が言いたいのか分からなくなってきた。
どうやら今日の私は虫の居所が悪いようで、何に対しても苛立ちを覚えるらしい。

こんな文章を書きながらも今いる店でMaestroが流れ始めたことに大喜びしている自分がいる。
自分の中の自分が増えすぎると解離を起こし始め、やがて喧嘩を始めて自分に殺される自分が生まれ、結果的に全ての自分を黙らせる為に全てを終わらせたくなりがちなので、当面の目標は自分を減らすこと、本物の"自分の意見"を慎重に探していくことに尽きると思う。

シンドラーのリストの続きは今は見たくない。
今の彼から彼が離れていくことに、耐えられると思えない。待っていて、シンドラー。きっと何日後、いや何時間後、たった何分か後かもしれない。
どうせその時はすぐにやってくる。

SEVENTEENのタグをつけるのはおこがましいし、未来の自分がそれを許さないと思うのでつけないけど、私の中ではこれは紛れもないSEVENTEENの話だ。SEVENTEENを介した自分の話かもしれないが。

「やたらと人間に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます」という三島由紀夫の言葉がいつも胸にある。私はプライベートの"私"を知る人間にはあまり弱味を見せないし、こんな感情の波をぶつけることはほとんど無い。その点でもSEVENTEENを好きな自分は本来の自分であり、"弱味"なんだと思う。
己を己でいさせてくれる、私の弱みの居場所、これは紛れもなくあなた達の話だ。

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