世界が終わる日に
こんなテーマ、厨二病か病んでそうな人しかかかないと思うけど多分自分は今そのどちらもなので、書きます。
これは脚色もふざけも無しな、本心です。
死ぬこと自体は怖くない。
実際に死を直面したらそうは言えないかもしれないけど。
もし車両が迫っている線路に落ちたり、屋上の淵に立ったりしたら手足が震えだすかもしれない。
だけど、今の潤った豊かな生活が幸せすぎて吐きそうな今は、死ぬことは怖くない。
むしろ幸せであればあるほどなぜか無性に死を想像してしまう。
死ぬこと自体は怖くない。
だけど、死ぬことで悲しむ人がいるのは心が痛い。
今私を生かしているのは、私が死んだ時に悲しんでくれる人なんだ。
そんな人がいる以上は迂闊に命を絶ってはいけないんだ。
明日世界が終わるなら
隕石が落ちてきてとか、地球を覆い尽くす程の火が降ってきてとか。
フィクションでよくあるトピックであるが、明日世界が終わるなら私は泣いて喜ぶだろう。
悲しむ人が0でそんなに簡単に死ねるなら、と。
だって仕方がないことだから。人間ではどうしようもない力が働いて滅びるなら、それ以上の理由も個人の理由もない。
いつか終わりが来るみんなの人生、そしてだれかが人生を終えた時、周りに悲しむ人がいる。
でもみんなが同時だったら、深い悲しみに堕ちる人は誰1人としていない。
私はそれが悪いものだとは思えない。
頭の中には憧憬として映る。
だから「将来の人類ため」っていう言葉はどこか実感がなく、SDGSもピンとこない。
だからといって、別に環境に悪いことや好き放題をしたいわけではなく、節約や保全は「やりたい」からやっている。
思いやりではなくただ自分のエゴだ。
ふと、夜が怖いことがある。
それはなぜかは分からない。
自分と向き合うのを避けるかのように、スマホを手に握る。
自分から逃げるように、外からの情報で自分の中を満たす。
私は優しいのだろうか?
時には人を思いやり、親切を示したくなるが「相手のためを思って」が理由になる本気で大切な相手は一体どれくらいしかいないのだろう。
考えるのはやめよう。
人に迷惑は決してかけない。
言われて嫌なことも言わない。
だからどうか、こんなこと考えてしまうのは許してください。