愚痴も人それぞれ
私はよく人に「あまり悪口とか愚痴とか言わないよね」と言われることがある。でも、だからと言って思わないわけじゃない。理不尽なことに対して腹は立つし、嫌いだと思うような事だってよくある。あまり言わないから「溜め込まないで話していいんだよ」って言ってくれる優しい友達がたくさんいるんだ。すごくありがたいことだなぁ。
さて、人並みに嫌なものを嫌だと感じるのにどうして自分は人に言いたいと思わないのだろう、と考えた。
自分のこととはいえ、形のないことだから正解かどうかは分からないが推測するにこうだろう。負の感情を口に出すと逆にそれが記憶として残ってしまう。つまり、大抵の人が発散するために発した言葉というものは私の場合、発散ではなく停留になってしまうのだ。
これは辛い。そしたらわざわざ言葉に出さずに忘れてしまうのが自分にとって1番良い方法である。
理由はもっとあるように思う。人に話すということは相手にも自分の負の感情を知られてしまうということだ。「へぇ。こういう事が嫌いなのか」とか「こういう場合、そう考えるのだな」とか、大袈裟に言えば相談を受けた人は無意識のうちにこう考えるだろう。仮にも、大袈裟に言えばだが。
さらに、例えば人のことを悪く言ったとしよう。そしたらどうだろう。その人のちょっとした行動が気に入らなくて愚痴っただけなのに、自分はこの人が嫌いなのだと自分が記憶してしまうのではないだろうか。
この世をうまく渡るためには、敵を作ることなく平和な人間関係を築いていくことが賢明だと思っている。私の中の『自分的重要事項』で「人間関係」が多くの割合を占めている。人と楽しく活動できた時は素敵な一日だったと嬉しい気持ちになる。逆に、少しでも失敗してしまったかな?と思うことがあると著しく凹む。それは過剰なほどに。
話を戻すと、このように人と良い関係を築きたいと常思う私からしたら、「自分この人嫌いかも」という感情をもつことは大問題である。この感情を持っていると圧倒的に生きにくくなる。言ってしまった言葉によって自分が気にするくらいなら言わない方がずっとずっと楽なのだ。罪悪感を感じるくらいなら忘れるという選択肢を迷わずとる。第一に、負の話をしたところでその時間自体楽しいものでなくなるのが耐えられない。悶々と考えること自体無駄なように思う。
今までこのように書いてきたが、話してスッキリ発散できることも、ある。そんな時は話す人、話し方、雰囲気に気をつけながらしっかり話す。そこは自分と上手く折り合いをつけて処理する。
自分のスタンスを大事にしながらこれからも上手くやっていこうと思う。
これ、最強の自分語りじゃん。