第2回 神の恩寵、神の慈悲
毎日始末書ばかり書いている。仕事で失敗を重ねているからだ。始末書すらまともに書けず、訂正してさらに謝罪する。恐縮でございます。大変申し訳ありません。恐れ入りますがご対応いただけないでしょうか。オンラインだから舌打ちしたってばれないが、体温はしっかり下がる。業務後のペーパードライバー講習では講師に性的な質問をされ、驚きのあまりブレーキを忘れて自転車に乗った女の子をはねそうになった。情けなくて涙が出てくる。もうこんな毎日もこんな自分も嫌だ。
すっかり気持ちがまいった夜は、美しい男を見るに限る。ルッキズムは良くないと、したり顔で眉を顰めても、わたしがルッキズムで一番嫌なのは美しくないがゆえに自分に価値がないとみなされることであって、わたしは美しい男が好きである。
美しさったっていろいろある。所作や生き様もそうだし、一般的には欠点とされる特徴が美しいことだってある。こうして都合のいい言葉で逃げ道を作りながら、いまのわたしは顔のいい男が好き。検索窓に男の名前を打ち込めば、いまわたしが最も美しいと思っている男の顔が並ぶ。動画の多くは合法ではなく、VHSから移されたのかノイズが走り、押しつぶされたようにひしゃげている。
鮮やかな色のタキシードに身を包み、顔を黒く塗ったコーラスグループの、向かって左から二番目に「彼」がいる。ふわりとしたパーマヘアの両サイドをポマードで撫でつけリーゼントにして、丸いサングラスをかけ、口髭を生やしていてもなお幼い顔立ちなのがわかる。「彼」は自身による振り付けを、身体中でリズムを刻みながらグループの誰よりもきざに踊る。
あるいは、鬼籍に入った国民的コメディアンの隣で息の合ったやり取りを見せる「彼」でもいい。アイドルたちの横で台本片手に司会をする「彼」、すでに製造中止になっている当時の新商品のコマーシャルに出る「彼」でもいい。何だっていい。「彼」は額から鼻、顎にかけてのラインが特にきれいだ。「彼」を見ているとまるで、自分の身体から輪郭が失われていくみたいで気分がいい。自分が自分であることを忘れられる。
「彼」は歌手からコメディアンへと鞍替えするが、いつだってスタイルが良くて洒落ている。アイドルが飲み残したジュースをすする姿さえさまになる。寝起きでまともに話せないアイドルを前に、フリもオチも全部自分で作る。コント番組のクイズコーナーで、水色のスーツに赤いシャツ、大ぶりな金の指輪を合わせてなお色気があるのなんて、日本で「彼」くらいではなかろうか。
それからいくばくかの時を経て「彼」は犯罪行為によって表舞台から姿を消し、日本で一番有名な薬物依存症患者になった。「彼」は画面から追放され、不自然に拡大されて切り取られるか、うすぼんやりした霞のようなものに変えられてしまった。
犯罪は悪いが、罪を犯す前のことまで全てなかったことにする必要はあるのだろうか。良かった時のことを隠さないほうが、よほど犯罪や薬物への抑止力になるのではないか。どうしてこれほど器用で美しい男がいたことをひた隠しにするのか、わたしは誰かを問いただしたい。まるで侵略された土着の神か、トロツキーのようではないか。
誰かに強く魅了されることは信仰に喩えられる。そもそも信仰は、一方通行の欲望を利用して発展してきた。神も仏も信者の欲望を抑え込みながら、強い感情の受け皿となってきた。その感情は欲望と何が違うというのか。
ひっそりとイベントが告知されているのを見つけて申し込んだ。見知ったビルの地下一階にある定員二十名ほどの小さなイベントスペースで、お金を払って開始時刻を待った。
不安や恐怖心はあった。「彼」に自分を認識されたくなかったし、もしも「彼」の美しさが失われていたらと思うと嫌だった。
音楽に合わせて「彼」が入場する。「彼」はゆっくり歩みを進めて、通路側にいたわたしの目を見た。顔が小さくて、鼻の形がきれいだった。嗅いだことのない甘い匂いがした。「彼」は立ち止まり、小さいなといつも思っていた右手をわたしに差し出す。無我夢中で握手しようとすると、「彼」はそっとわたしの手をとって口元に寄せ、欧米人の挨拶みたいにしながら、「彼」は「彼」のほうの手に口づけした。「彼」の手はとてもあたたかかった。それから「彼」は両手をゆっくりおろし、芝居がかった手つきでズボンのファスナーをさげ、股間からごそごそと棒付きのキャンディを取り出して、わたしにくれた。キャンディには「ひみつの味」と書かれていた。
頭の奥で音を立てて蜜が湧き出る。何も口にしていないのに甘い味がする。あらゆる光が、フレーク状になって次から次へと全身に突き刺さる。わたしは、「彼」の呼び名を表す響きが、綴りこそ違うものの、神の「慈悲」や「恩寵」を表すことを思い出していた。だがこの法悦が、よりにもよって自らの手で報酬系を壊してしまった人によってもたらされたのは皮肉だった。
イベント終了後の帰り際、握手をしてもらいながら何の意味も持たない言葉をどうにか絞り出したわたしに、「彼」はフニャッと笑って、「また会おうね」か「また来てね」か「また会いに来てね」のどれかを言った。レンズの奥の鋭い目が途端にほぐれるフニャッとした笑顔が、瞬時にいくつものコントの映像と重なった。年をとっていたし、時折手が震えていたが、いまの「彼」も美しかった。あえて、ではなくて、いろんなことがあったことを足し引きしたとて、関係なく美しかった。
「彼」の辿った運命を考えれば、神は本当にいないのだろう。過ち以降、「彼」は揶揄と嘲笑の対象になり、一時期は神と呼ばれていたこともあったけど、死ぬまで強い誘惑と付き合いながら生き続けなければならないという意味では、あまりにも人だった。あるのは慈悲だけ。恩寵だけ。
生きていくことの途方もない恐ろしさに身悶えする。わたしは何を信じればよいのだろう? 最近引っ越しをしたのだが、近くの神社で祀られているのが江戸時代の実業家だと知った時は、現実的な街だと笑ってしまった。いや、神がいなくても住みよい街だ。暮らすのには便利だ。でもいったい誰が江戸時代の実業家を、自分なんてどうなってもいいと思えるほどの拠り所にできるだろう?
謝罪してばかりの仕事を休憩してレターボックスに手紙を取りに行く。西日が強く差している。午後6時を告げる「峠のわが家」のチャイムがあたりいっぱいに反響し、メロディラインがぼやけている。わたしの身体にも陽の光とチャイムの音が入り込み、輪郭の内側で乱反射して増幅していく。わたしは満たされていくのを感じた。まるで全身が古くて巨大な教会になったかのようだった。あの瞬間は一体なんだったのだろう?
わたしはあの反響を信じる。わたしの身体の内側に起こる、強い愉悦こそが本物だ。たとえば「彼」も、わたしにとってはその実感を生み出すきっかけにすぎない。わたしのこのみっともなさや、浅ましさ。ひどく飢えていて、直視しがたく温かな尿が臭い立つようで、それゆえに途切れることなく湧き出る醜い欲望。この欲望こそが喜びを作り出してわたしを生かす真の神で、わたしはこの神と共に生きていくほかないのだ。
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