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【マスコミに物申す】マスコミよりSNSの時代になっている!?
インターネットで飛び交う、IT・科学・経済のニュースから、独自の視点で「マスコミに物申す」第3回目
マスコミは、マスコミよりSNSの時代になっていることに気づいているのか!?
衆議院選挙で焦点が当たった裏金問題も、国民民主党がフィーチャーされた103万円の壁問題も、そして今週もちきりだった兵庫県知事選挙で斎藤氏が再選したことについても、最近のマスコミは本当に国民にむけて役割を果たしていると言えるのか?
マスコミの定義や役割を改めてAIに聞いてみた。
マスコミとはマスコミュニケーションの略称で、大衆伝達とも訳されます。 主に新聞、テレビ、ラジオ、インターネットなどを用いて、不特定多数の大衆(マス)に大量の情報を伝達することを指します。主な役割は公共性の高い情報を正しく、早く、多くの人に伝え(中略)、そして民主主義の健全な発展を促進することです。
AIにとってマスコミにはもはや、インターネット(SNS)も範疇に入ってしまっているが、ここでは便宜上、主に新聞、テレビ、ラジオといういわゆるオールドメディア(単一方向メディア)と、インターネットやSNSなどのネットメディア(双方向メディア)とは分けて話していく。ここで重要なのは、テレビ・ラジオを代表する放送メディアの役割は「多くの人に大量の情報を差別なく速くほぼ同時に伝えること」そして「民主主義の健全な発展を促進させる」役割を担っているということだ。
にもかかわらず最近のテレビメディアでの情報の一面的な取り上げ方には嫌気が差す。11月17日に行われた兵庫県知事選挙についての取り上げ方についても同様である。
即日投開票の結果、斎藤元彦前県知事が111万票を獲得し、対抗馬として出馬した稲村和美元兵庫県尼崎市長らを大きく引き離して当選となった。
このNHKの記事にもあるように、テレビメディアはこの結果に対し、こぞって「SNSでの発信の勝利」と分析した。この言葉には悪意が込められている感じさえした。斎藤氏が巧妙にSNSを駆使したことで、パワハラやおねだり疑惑などの負の要因を払拭させることができてしまった、、、そんな報道と感じた。
この立花孝志氏の政見放送によれば、ニュース番組や報道では直接は紹介されなかった、そもそも斎藤前知事の不信任案を議決した百条委員会には「隠し事」があった、ということが話されている。自分に投票してもらうための政見放送を利用して斎藤氏を応援するメッセージを発するのは違法ではないかとの指摘もあるが、都知事選挙で誰も注目することのなかった立候補者のポスター掲示板枠を販売した立花孝志氏らしい違法スレスレの発想である。
因みに私はこの政見放送などを後日見るまで、齋藤氏のパワハラなどを告発し、それを聞き入れてもらえなかったことを無念に自殺したとされる渡瀬元西播磨県民局長の不倫疑惑、不倫の証拠データがPCに残されていたことなど、一切知らなかった。たまたま友人と話をしていて友人から聞いて立花氏の政見放送を見て、そんなことも流れていたんだと知った。
私は、この記事(7月13日分)に書かれているようなことが事実だったのではないか、というまま県知事選を迎えていた。そんな人も多かったとは思うが、兵庫県民はそうではなかった。立花氏の活動の甲斐もあって齋藤氏の県政に懸ける思いを受け止めていたのだ。そしてSNSの威力による齋藤氏当選という話題につながっていく。
こうした発言を優先的に取り上げるいまのマスコミは、どんどん国民の気持ちから離れていくのではないか。
旧統一教会の関係を追い続けて話題となった鈴木エイト氏は、今回の選挙の結果を受けて安易に「SNSがオールドメディアであるテレビに勝った」と分析するのは過大評価のしすぎであると指摘。
さらには落選した稲村和美氏に至っては、自分のSNSにうそ通報を何者かに書き込まれて凍結されたと、SNSが活用できなかったことが落選の原因の一部というつもりはないがと断ったうえで、偽計業務妨害の疑いで兵庫県警に告訴状を提出。もはやSNSは無視しては政治活動も社会活動もできないことは確かな事実。
もはや日本における情報社会のありようは混乱の一途を辿っている中、元マスメディア社員だった私が言いたいことは2つ。
ひとつは、マスコミを含めた社会に向けた情報発信は、国家を繁栄させ、国民が幸せになる方向に向いていなくてはいけないということ。人によって幸せの意味は違えど、発信する人が幸せにならないことは発信しないでほしい。
そしてもうひとつは、「事実」と「真実」は違うということ。マスコミを含めた不特定多数への情報発信は、少なくとも発信する人が「事実」と認識できることにすべきであって、「真実」を考察する行為は情報発信とは別物だということ。
SNSに代表されるネットメディアにはこの「真実の考察」が溢れている。この影響を受けてかマスメディア・マスコミも「真実の考察」を報道=ジャーナリズムになることが多くなっているように感じる。これは法廷の場で考察すべきものであって、情報発信でやるべきではないのだ。なぜなら「真実」を追求することが必ずしも国民や社会を繁栄、幸福になるとは限らないからだ。報道・ジャーナリズムをAIに聞いてみると明らかだ。
報道・ジャーナリズムとは、時事的な問題や出来事の報道、解説、論評をし、社会に問題提起し、世の中の仕組みを改善する役割を担うことである。
世の中の仕組みを改善するつもりで発信しても、誰かが不幸になることは報道ジャーナリズムとは言えないとAIは言っている。これがいま私が思うマスコミが再確認しなければならないことだと思っている。