計り知れない恩寵の下で(スピリチュアリズム考④)
スピリチュアリズムの実践ということに思いを巡らせていると、「本物の信仰とは?」について考えることになる。それが「壁」という感触を抱く感じもある。あまりに自分の行動と心持ちの「情けなさ」に愕然とし、どうしようもなくなる瞬間である。
祈りながら、「大霊=神」について考えてしまう。
思えば思うほど、途方もない存在であられる。
今の私たちが感じている「この世」だけではない。全く感じられていない部分も含めた「全宇宙」と、現世の物理的な世界を超えた異次元のあらゆる宇宙世界の物理的な表象と実存と、「霊界」のすべてを、摂理で司っておられる、言葉で言い表せない“意識体”――。それが、神様。
全くもって計り知れないのだ。その計り知れぬ恩寵の下で生きているのに、肉体を伴ってこの地上世界に生まれてきた我々は、それを実感できない。感じられないからこそ、摂理に違反する行為を繰り返している。
「摂理に調和する」というのは、なんと難しいことか……。
まず、「摂理とは何か」が解らなければならない。
摂理が解らなければ、どんなに「摂理に沿う」努力をしても、無意味ということになるのかもしれない――。
摂理を知らないこと、それこそが「霊的無知」という状態だといえる。
混沌とした、利己主義ばかりが溢れている今の時代に、「きっちりと正しい方向へと指導してくださる存在」を得ている人たちがいる。
そんな位置にいるとしたら――なんという幸運なことか、と思う。
この僥倖は、過去生で積み上げた恵みの果実なのか、あるいは過去生で積み上げた解消すべき業と試練を、どうにかしようともがく努力の先にある関門なのか。
すべては御心のままに。
(了)