伊勢神宮で正しい「祈り」を考える――スピリチュアリズムの視点から
人よりも旅の多い人生を送ってきたかと思う。「恥の多い生涯を送って来ました」と『人間失格』に書いたのは太宰治だが、旅の多い人生は恥の多い人生でもある、といえるかもしれない。「旅の恥は掻き捨て」と、古人も云っていたようだから――。
そんなことを考えながら2023年の9月某日、伊勢神宮を参詣していた。夏の名残りで湿った空気が流れ込み、大粒の雨が降ったり止んだりという天候だった。
「伊勢神宮は朝に参拝するのがいい」と聞いていたので、前泊して午前7時前に内宮に到着。手前に大きな鳥居がある宇治橋を渡って五十鈴川を越えると、空気が変わっていくのが体感できる。
この静かで落ち着いた、清らかな感じがするエリアに入ると、いつも「結界の内側」に踏み込んだ感覚にとらわれる。この日はちょうど雨が上がり、連なる山の上には虹も出てきた。
スピリチュアリストは「お伊勢さん」で何を祈る?
お伊勢参りで何を祈るかは、人それぞれだろう。健康だったり、商売繁盛だったり、受験生なら合格を祈願したりと、様々あるに違いない。「願いを聞く方はたいへんだね」と神様を慮りたくなるというものだ。
ただ、こうした「現世利益的な“お願い”」をしないというか、しても意味がないと考えるのがスピリチュアリストだ。「神は人格のようなものを持った存在」ではないと弁え、神とは「摂理によって全被造世界と霊界を支配している」と理解している者たちだからだ。
神宮大麻を買って、いちおうお賽銭を(ケチだから少額)払って、心の底から熱誠をもって祈ったとしても、その願いは聞き届けられない――。
そうと知ったら怒る人もいるかもしれない。「ワシが今まで捧げてきたお賽銭はどうなるんじゃ!」というオジサン・オバサンもいることだろう。いや、お賽銭ならまだいい。世の中には宗教団体に多額の寄付をし、特定の宗教・教祖に人生のほとんどを投げ打ってきた人が大勢いる。
2024年3月に筆者は北海道の函館市を訪れ、トラピスチヌ修道院(同市)やトラピスト大修道院(北斗市)を観光で見て回った。
初めての訪問で、一般人は中には入れない。ここにいる修道士の方々は信仰として人生をキリスト教に、イエス・キリストに捧げてきた人たちだ。しかし、そんな真摯な方たちが人生を賭してきた信仰が、死後にあの世で「無駄だった」と分かるとすれば、いったいどう思うだろうか。
真剣に祈れば「神が聞き届ける」は地球規模の“共同幻想”
「祈れば通ず」という考え方はすべて、これまで霊的事実を知らないできた人間が勝手につくりあげた「神の姿」であり、人間側からの「単なる期待」だ。
2023年の4月に、スピリチュアリズムの読書会(東京スピリチュアリズムサークル主催)に参加した筆者は、いろいろと縁が重なって先達からの指導を受けて、自分自身を「スピリチュアリスト」として磨いていこうと決意した。まもなく1年になろうとしているが、もちろんまだまだ新参者だ。
この読書会はスピリチュアリズム普及会につながっている。スピリチュアリズム普及会は40年の歳月をかけて、世界三大霊訓の筆頭といえる『シルバーバーチの霊訓』で示された膨大な情報を、スピリチュアリズムの思想体系としてまとめ上げた。
霊力にあふれる「正しい祈り」とは?
その思想体系を、普及会は今年2024年に「特別読書会」という形で講座を毎月開講し、スピリチュアリストに学びの場を提供している(※注:誰もが学べる講義ではありません)。筆者もその特別読書会にも参加させていただいているが、2024年の3月上旬に東京で開催された講義で、講師の先生が明らかにした内容には大きな衝撃を受けた。
「正しい祈りとは、神の正しい姿を知らずして、それを認識して祈らないことには、霊力が存分に注がれないものなのです」
2024年3月25日に、スピリチュアリズム普及会から新たに「インフォメーション No.51」が公開された。そこにも以下のように書かれている。
上の引用にあるように、地球上の、すべての宗教は、人間の幸福願望で成り立っているのだ。これはお伊勢さんだけでなく、キリスト教もイスラム教も仏教も、その他の新宗教も、すべてが「人間が真剣に願い、真面目に祈れば、神様が聞き届けてくれる」という、地球規模の壮大な“共同幻想”の上に立脚しているといえる。
しかし、どんなに熱心で真摯な祈りも、神(大霊)が示されている方向性からズレた、“的はずれな祈り”では意味がないのだ。
講師の先生が言い放ったこの言葉に、納得すると同時に、これまで地球上のどんな宗教も「神への祈りが正しかったことがない」という事実に震撼する思いだった。
ごくごく一部のスピリチュアリストがこの「事実」を、今ようやく知っただけなのだとしたら……。世界中のほとんどの人が神と人間が直接つながり、その願いを聞いてくれると思っている。それが全くもって「間違い」だったとすれば、今まで人類は、いったい何をしてきたのであろうか?
神の摂理に適うように生きるのが成長への道
加えて今回の講義で “圧巻” だったのは、その「摂理の真相」を明らかにしていただいたことだ。
『シルバーバーチの霊訓』を読むと、よく「摂理は複雑」である、と出てくる。
これ以上のことは、おそらく今まで世界でも明らかにされていなかったと筆者は認識している。そして特別読書会の講義では、5つからなる「神観」と、どのように人間や地上界、そして宇宙や霊界が成り立っているのかを9つの「摂理(法則)」で解説していただいた。
神は、無窮にして不朽の摂理を通して霊界・全宇宙を支配している。
その神が創造した摂理に適った生き方をすることで、人間を含む全宇宙の霊的存在者に幸せになって欲しいと望んでおられるのだ。
そうして「霊的に成長する」ことを神は望み、それこそが幸せへの道だと啓示しておられるのだ。
ただ、伊勢神宮を参詣した2023年の秋には、まだここまでの理解はなかった。それでも、祈る内容は決まっていた。
「霊界の意志を支える道具として、我が身を、我が霊を、使ってください」
――まだまだ実践が出来ていない。だがこれは、スピリチュアリストとして神の摂理に沿って生きていくための祈りでもあった。伊勢神宮にいる、「神々」と呼ばれる護国の高級霊団は、「こりゃちょっと珍しい、おかしな奴が来たな」と思ったかもしれないが。
そんなことをつらつらと考えながら、これまでの旅で掻き捨ててきた大量の恥を心の内で噛みしめつつ、2時間ほどかけて伊勢神宮・内宮を歩いて回った。
清々しい気持ちで満たされたのは、単に散歩したからだけではなかったように思う。朝の清洌な空気を浴びて、霊力を得たような気がしたからだろう。
いや本当は。朝ごはんを抜いて歩いていたこともあって、最後の方では「さて、どこで伊勢うどんを食べようか」なんて思っていたのだけれど。
(初出:2024年3月26日。当初の投稿から内容を変更し、記事を分割して同年3月29日に再公開しました)
※引用・リンク先の表示にあたっては、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。
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