2020.12.16<アヴィーチー>
ひとりの者の死に際して、皆が手を合わせる行為、そしてその寂しさを高らかに歌によってたたえる姿は美しくて私も自然と厳かに手を合わせたくなった。
アヴィーチーという繊細な人間がこの世の地獄を見ながらも希望を紡ぎ、作品として世に送り出してくれたからこそ、私はそれを杖としながら今日まで歩んでくることができた。アヴィーチーの歌や人生はそれそのものが、苦しみのただなかにありながらも、「だからこそ」の希望と愛に満ちている。悲しみを感じさせながらも喜びの涙を流させる、まさに痛みの淵を歩んだ人だと思う。もうあれ以上は生きられなかったのだろう。だれも助けられなかったと思う、彼のことはすでに世界中が知っていたから。
生きていればこそ、だと私も思う。特に私の人生が続く限りは、愛しい人には生き続けてほしいと思う。しかし、そうもいかないのがこの世の神羅万象に基づく原理原則なのだと思う。
たとえば、この瞬間にひとりの大切な人が指を切ってしまったとしよう。些細なことだ、ばんそうこうを張っておけば、消毒をすれば数日後には治る。しかし、もしかしたら、一瞬の何かしらで指が切断されていたかもしれない。それはどんな場面でもいえる。私にとってそんな意味でもこの世界で自分が生きていくときは身を任せたほうがいいと思っている。
人が自分の運命をどうしてもコントロールしようとするのは、幼いときに倣ったことで、長年の習慣がそうさせている。一度習慣を終えたとしても、再度習慣化してしまえばまた繰り替えす。終わりのない鍛錬のようなものだと思う、思考は。
わかめのように水のように柔軟だから常に自分に注意をはらっておかなければならない。
急にどうしてそんなことを言うかといえば、私はきっと今日も迷いかけたから。きっとあおくんも、朔ちゃんも、そして弟も。自分を注意深く保っておくことは実は難しい。この困難さを完全にコントロールできるものはいないのかもしれない。自分を常に注意深く見つめておくこと。
私も常にコントロールしようとして失敗して、原因は何かもわからないままにここまで来てしまった部分もある。部分的なことで全体ではないこともまた注意が必要で、全体を把握するには私たちは人生経験が少なすぎると思う。
アイデンティティ、自我とは何か?良くも悪くも人との差であり、その差に対して心地よさプライドを感じるか。
思考は自由で人に見せて歩く外見ではない。だからこそ身ぎれいにしておかないといけない。
おや?今日はまじめだな!!
あおくん、朔ちゃん、そして、弟、案ずるよりも生むがやすし。
私が言えた義理ではないけれど…
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