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パテックフィリップの歴史①(パテック氏スイスへ行く編)

こんにちは!

 今回は様々な著名人たちに愛され、時計好きのみなさん憧れのメーカーパテックフィリップ、その創業者アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックにフォーカスしてお話しさせていただこうと思います!
 まずは、ポーランド人であるパテック氏が時計事業をはじめるスイス・ジュネーブに至るまでのお話です。

アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック

権力への反抗

 1812年にポーランドの貴族の家に生まれた彼は、若き頃は軍隊士官学校に通う有望な若者でした。 しかし当時のポーランドはロシアなどの強国に分断支配され国としては消滅してしまっていました。
 なのでポーランド人の軍隊や貴族たちは国家の復活を目指し決起の機会を伺っていたのです。
そんな状況の中でパテック氏も運命に巻き込まれていきました。

 1830年11月、パテック氏が18歳の時に士官学校のロシア人教官が生徒をムチで打とうとしたことをきっかけに大規模な暴動へと発展する反乱が起こりました。(十一月蜂起)
 同じ年にフランスで市民による革命(七月革命)が起こったことでポーランド人たちの独立への機運も高まっていたわけですね。 パテック氏も軍人としてこの反乱に参加していました。
 しかし約9ヶ月続いたこの反乱は、ロシア軍によって制圧されてしまいます。 これにより軍の関係者や貴族などが弾圧されていく中、貴族の生まれで軍人として反乱に参加していたパテック氏をはじめ、多くの人たちがフランスへと亡命していきました。

 こうして祖国を追われ、フランスへと亡命したパテック氏はその後、スイスのジュネーブへとさらに移住して軍人を辞めて、はじめは画家を目指していたそうなのですが、ここでハテナ?ポイントです。

 なぜフランスからさらにジュネーブへ行き、時計屋ではなく画家志望だったのか…
これはその当時のフランスの政治と文化が関わっているのではないかと思います。

市民の活気と希望の光

 1832年6月にフランスでは農家など労働者層の市民が王族を倒しても結局お金持ちたちが国を仕切っていて庶民の人たちの生活は変わらなかったことに痺れを切らして暴動が起こりました。(六月暴動)
※ちなみにこの時の暴動はフランス人小説家
ヴィクトル・ユーゴーのレ・ミゼラブルのクライマックスシーンの元ネタだったりします。

 フランスに辛くも逃れたパテック氏もこの暴動を見ていて、亡命先でその国の市民による暴動に巻き込まれては、貴族出身でお金に余裕もあったであろうパテック氏としては身の危険を感じたのではないでしょうか。 そこで当時すでに永世中立国だった隣国スイスへ行ったのではないかと思います。


次になぜ画家志望だったのかですが、
 1830年にフランスで起きた七月革命を元に描かれた有名な絵画があります。
フランス人画家ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」です。世界史の教科書とかにもよく出てきますね!
 この絵は革命を起こした市民たちと自由へと導く女神とその当時の戦場を描いた作品で、 
まさに人民が自由を勝ち取った戦いを描いた1枚でした。

民衆を導く自由の女神


 おそらくパテック氏は、これを見て自分たちポーランド人も自由を得たいと思ったのと同時に、そんな今を生きた人たちを情熱的に躍動感溢れる絵を描くドラクロワに憧れを抱いたのではないでしょうか。
 これがきっかけで元々美術が好きだったパテック氏は自分もこんな絵が描きたい!と思い、
移住先のジュネーブで画家を目指していたのではないかと私は思いました。

 かくしてポーランド→フランス→スイスへと各地を転々とし、各国の事件や出会いを通して新たな思想に目覚め始めたであろうパテック氏ですが、移住先のスイス・ジュネーブでこの先の運命を決定づける出会いがありました。 それがスイスで独自な発展を遂げた時計産業でした。

まとめ

今回はここまで!
 有名なメーカーの創業者だから初めから順風満帆かと思いきや、19世紀という歴史的に大きな変化が起きた激動の世界の中で翻弄されていたんですねぇ
ただそんな時代の中で人々の思想の変化や、
新たに生まれた事をリアルタイムで経験したことで、この後の偉大な功績へと繋がっていったんでしょうね!
次の投稿では、スイスに行ってから始めることになる時計事業における歴史的背景について書いていこうと思います!

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