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連載9/12 ラファエル前派

結成

ウィリアム・ホルマン・ハント「無垢の勝利」1883年頃、テート美術館

ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood、以下PRBと記します)は、1848年にロイヤル・アカデミーの学生だったジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントと、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティその他数人の彫刻家や画家によって結成されました。

ロイヤル・アカデミーの初代会長サー・ジョシュア・レイノルズと、レイノルズの流れをくむ、古典絵画、特にラファエロを模範とするアカデミズムに反発するものでした。ラファエロの、画家としての価値を否定していたわけではありませんが、「ラファエロ(英語読みでラファエル)以前の」中世や初期ルネサンスを理想とし、「ラファエル前派兄弟団」と名乗りました。画家グループが「兄弟団」と名乗る前例は、他に古代派と後にナザレ派となる聖ルカ兄弟団があります。

特徴

PRBの理念や技法には以下のような特徴があります。

ロセッティ「至福のベアトリーチェ」1870年頃、テート美術館
  • 中世の美術は、創造性と精神性において完全であるとし、理想視した。

  • 歴史、文学、中世騎士物語の主題を好んだ。

  • ジョシュア・レイノルズ式の絵画の、背景の曖昧な部分を黒っぽく塗る技法を「ビチューメント(黒い絵の具)の多用」であるとしてきらった。

  • 特に、ウィリアム・ホルマン・ハントとジョン・エヴァレット・ミレーは細部を非常に細かく描写した。ミレーが「オフィーリア」を描く際、10円玉ほどの面積を何時間もかけて彩色した逸話。一枚の絵の完成までに非常に長い時間をかけた。

  • ハントやミレーは、「クワットロセント美術」(中世後期、初期ルネサンスの美術。ヴェロッキオ、クリヴェッリ、フラ・アンジェリコ等)の技法を研究した。湿った白地に色を重ねる方法。結果として、宝石のような透明感と鮮やかさのある画面に仕上がる。

  • アカデミズムやクリックの画家から多くの批判を受けたところ、ジョン・ラスキンはPRBを支持し、援助した。ラスキンの影響もあり、細密で正確な自然描写を試みた。

  • 芸術の精神性を強調し、クールベや、印象主義と対立した。

独自路線へ

1850年に、ミレーの「両親の家のキリスト」がアカデミーに展示されると、「冒涜的である」等とディケンズやクリックから痛烈に批判されました。聖母が理想的な美しい若い女性に描かれていないこと、キリストが赤毛の子供として表現されていることが特に問題だったようです。中世趣味は古くさく、緻密に過ぎる細部描写も不快だと受け止められました。これに対し、前述のようにラスキンがPRBの擁護をしました。ラスキンは特にミレーを積極的に支援していましたが、女性関係でいざこざがあったため、ミレーとラスキンは決裂しました。ラスキンは後年のミレーの作品には批判的でした。ハントとロセッティも、モデルの女性をめぐりトラブルがあり、結果的にPRBは1850年代には実質的に解散状態となりました。その後、ミレーは大家族を養うために肖像画を多く受注するようになり、画風も変化しました。アカデミーの会員、会長(半年間だけ)もつとめました。もともと、PRBの考える中世芸術の精神性と、リアリズムとは相反するもので、ハント、ミレーがリアリズム路線を取ったところ、ロセッティは、中世風の理想を表現しようとしました。ロセッティの中世好みはバーン=ジョーンズやウィリアム・モリスに承継されました。ハントは、初期のPRBの理念に忠実で、何度もパレスチナへ旅行し、聖書の主題を緻密なタッチで描きました。

J.E.ミレー「救助」1855年、ヴィクトリア国立美術館

J.E.ミレーの「救助」は消防士が火災から三人の子供たちを救助するシーンです。この頃に、イギリスでは消火の仕事が民間ビジネスから行政へ移管され、財産よりも人名救助を第一とするようになりました。ミレーは、光を効果的に表現するため、色付きガラスを使ったり、板を燃やしたりしました。

影響

バーン=ジョーンズ「夜」1870年

PRBはハント、J.E.ミレー、ロセッティが中心メンバーでしたが、フォード・マドックス=ブラウンやアーサー・ヒューズはグループと親しく、画風も相通じており、美術史上はほぼ同一視されることが多いようです。

アーサー・ヒューズ「ガラハッド卿」1870年、ウォーカー美術館

唯美主義や象徴主義の先駆者でもあります。19世紀後半のロイヤル・アカデミーの会長は、1878年〜レイトン卿、1896年とそれ以降は、J.E.ミレーとエドワード・ポインターで、レイトン卿はPRBと交流があり、ポインターはバーン=ジョーンズの義理の兄弟でした。ウォーターハウスは、アカデミズムの画家ですが、PRBからも色濃い影響を受けています。反アカデミズムからスタートしたPRBですが、19世紀後半にはアカデミズムに浸透して行ったと考えられます。

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