連載3/12 イギリスとフランスのロマン主義
ヘンリー・フュースリー
スイスより渡英し、生涯のほとんどをイギリスで暮らしました。ジョシュア・レイノルズのアドバイスを受けて画家となり、ボイデルのシェイクスピア・ギャラリーのために多く描きました。超自然的な描写を好み、パレットを使わずにキャンバスに絵の具を塗りたくっていたそうです。
様式は古典主義的であるものの、神秘主義的で非現実的な主題を好み、ロマン主義的精神を持っていました。
ウィリアム・ブレイク(1757-1827)
ウィリアム・ブレイクは、ロイヤル・アカデミーに学んだものの、学長であったレイノルズに代表されるような、ルーベンスを承継する様式をきらい、レイノルズと対立しました。詩人・画家として活動しましたが、当時の流行を忌避し、精神的・芸術的な新時代の到来を信じて、独自の作品を発表したので、変人扱いされました。ヤコブの夢は、画家のインスピレーションを刺激するシーンですが、多くは梯子か、直線上の階段で、ブレイクのように螺旋階段としているものは珍しいです。
しかし、その創造性や表現、神秘主義への傾倒はロマン主義の先駆として、今日では高く評価されています。
古代派
1820年代半ばより、ブレイクの思想に共感して、彼を中心に集まり、古代の田園生活を理想としたのが古代派です。イギリスの芸術家集団として初めて「兄弟団(brotherhood)」を名乗り、ロイヤル・アカデミーに反発しました。一連の動きはラファエル前派に通じますが、アカデミーの展覧会に作品を出品しても、ラファエル前派のようにセンセーショナルな批判にさらされることはありませんでした。
古代派は、ドイツのナザレ派や、フランスのバルブ派(※)に呼応する動きです。打ち棄てられた僧院で共同生活をする代わりに、古代派の画家たちは、郊外のサミュエル・パーマー(1805-81)宅に長期滞在しました。パーマーは、水彩画を得意とし、穏やかな田園生活を描きましました。ただ、息子が作品や資料を破棄してしまったために、死後、長期間忘れ去られていました。息子による破棄は、グループ内であったらしい同性愛を隠す目的だったようです。古代派の画家は、他にF.O.フィンチや、シャーロット・ブロンテ等の肖像画を描いたジョージ・リッチモンドがいます。
(※)Secte des Barbus 1800-1803 バルブ派の訳が適当かどうか不明。原始主義、思考主義とも言うらしい。ダヴィッド門下の、師に反発する学生が、 P.M.Quaysの指導で結成。ダヴィッドはプッサンを模範としたが、バルブ派は、ギリシアの壷や初期ルネサンスを手本とすべきだと主張した。ホメロス や、オシアンを題材とした。彼らの思想は、美術様式のみならず、ライフスタイルにも浸透し、古代ギリシアのような服を着て、パリ郊外の修道院で生活し、その変人ぶりは歩くとヤジを飛ばされるほどだった。メンバーは、ジャン・ブロ等。
J.M.W.ターナー(1775-1851)
ドイツのフリードリッヒと1歳違いで、14歳でロイヤル・アカデミーに入学しました。当時、アカデミーには「ジャンルのヒエラルキー」なるものがあり、歴史画を頂点として、風俗画、肖像画、静物画、風景画は一段劣るとみなされていましたが、ターナーは風景画を歴史画に匹敵するものへと高めました。曖昧な輪郭のダイナミックな油彩画も特徴的で、印象主義に影響を与えました。
日本語で「ロマンティック」と言うと、荒涼とした自然や、中世ヨーロッパの厳しげなイメージではなく、もっと親しみやすく、甘い感じを思い浮かべると思います。時々、英国ロマン主義と称した展覧会が開催される(例えば、1998年Bunkamuraザ・ムージアムの「英国ロマン派展」や、2003年、兵庫県立美術館等の「英国ロマン主義絵画展」)と、ターナーやサミュエル・パーマーもあることはあるのですが、ラファエル前派や唯美主義、ウォーターハウスの美人画もかなり展示されます。これらは、日本語的な「ロマンティック」のイメージには合致しますが、(影響は受けているにせよ)美術史上、ロマン主義には分類されないものと思います。
アンヌ・ルイ・ジロデ(1767-1824)
ジロデ(・トリオゾン)は新古典主義のダヴィッドに師事し、ローマ賞を受賞しました。古典主義的様式でナポレオン一家の肖像画等を描き、アカデミー会員でした。自然描写と、生命力にあふれた美しさが際立っており、絵画に官能性を加えたことから、ロマン主義とのことです。