今年の夏も音楽を聴いていた
1日のうち、音楽を聴いている時間がやたら多い。朝の身支度中や、通勤・退勤中、夕飯づくり、風呂での時間など、もはや無くてはならない。休日も音楽のライブに行くことが多いし、店で知らない曲が流れているとすぐにiPhoneで調べてしまう。
聴く曲のレパートリーは数か月の周期で変わっていく。気持ちの変わり目の周期がだいたいそのくらいの期間だからだろう。新しく知った曲や再燃した曲、何曲かをその期間とことん聴きこみ、数か月したらまた別の曲に移っていく。そしてこの夏も、そのサイクルの中を生きていた。
近年、夏の甲子園人気がすさまじい。炎天下もお構いなし。観客は絶えることなく訪れ、チケット完売もめずらしくない。
「こんな暑い中、よく観に行くわ」
冷やし中華を食べながら、テレビで観戦する実家の母は呆れ声を上げた。母がああいった大イベントに出向く姿を僕は見たことがない。エアコンの涼風に吹かれながら、テレビに向かって「あぁ、エラーした」とブーブー文句を言うのが性に合っているのだろう。
一方、目の前で昼食をともにする実の息子が、まさか数日後のチケットをその手に握りしめているとは思いもよらないだろう。その事実を母に自白することもなく、母と同じく涼風を感じながら、冷やし中華をかきこんだ。さながら床下に潜む忍のような緊張感があった。
当初、甲子園に観戦しに行くつもりはなかった。しかし、偶然故郷の高校の試合日がお盆休みと被ったため『これは応援に行かねば』と、郷土愛を発揮したわけなのだ。
小学生以来、夏の甲子園の大ファンだ。1回負けたら終わりが故の、何が起こるか分からないドキドキ感や、テレビで1日中野球が観られる非日常感が子ども心をくすぐった。
今でも甲子園の季節になるとウズウズして、過去の甲子園の動画を見返すことも多い。名試合やスーパープレー集も好きだが、一番好きなのは敗れてしまった球児たちを捉えた映像だ。悔し涙を流しながら、インタビューに答える姿やチームメイトと抱き合ったり、称え合ったりする姿に胸を打たれるからだ。
先日見た動画は、味方のエラーで敗れてしまった2年生エースが、翌年の甲子園に向かって練習に励む姿を追ったものだった。甲子園で敗れてから、わずか1週間の新チーム。練習の合間の休憩中、部室にあるテレビをつけると勝ち上がったチームの試合が流れていた。それを見つめる彼の瞳には『来年もあの舞台に立ってやる』という強い意志と、『もしかしたら今もあの舞台に立っていたかもしれない』という淡い羨望が混ざり合っているように思えた。
「じゃあ、もう行きます」
テレビを消し、グローブを手にして再び練習へと向かっていく後姿。たくましくもあり、どこか切なさを帯びた背中でもあった。哀愁漂うBGMの中、涙腺が緩んでしまうのはもう歳だからか。
小学生の頃から見続けた高校球児。いつの間にか彼らよりも歳上になってしまった自分。ただ、彼らの姿を見るたびに感じるのは、どうにも歳下には思えないということだ。
新型コロナウィルスの影響で、今年3年ぶりに開催された『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2022』(通称ロッキン)に参加した。夏フェスは初めての参戦だ。YOASOBIやKing Gnu、あいみょんといった有名アーティストはもちろん、あまり馴染みがないアーティストの曲も一つのイベントの中で聴けることが大きな魅力だ。
(ちなみにサムネイルはロッキンの入場ゲート。ロゴ看板が合成にしか見えないのがシュール。)
今年のロッキンの特徴の一つは、新型コロナウィルス感染によるアーティストの出演辞退が相次いだことだ。僕が楽しみにしていたBishもその内の1組。誰も悪くないのが、余計に辛い。
Bishの代役を務めたのはTHE BAWDIES。どこかで聞いたことがある名前だ、というのが第一印象だった。いつの記憶だろうかと振り返ると、2012年放送のドラマ『ハングリー!』の主題歌『ROCK ME BABY』を歌うのが彼らだったのだ。
といっても、ドラマを観ていたわけではない。当時中学生だった僕は、テレビ朝日『Mステ』に出演した彼らが歌う『ROCK ME BABY』を聴き、すぐに好きになった。
当時、携帯を持っていなかった。だから、気に入った曲があっても、CDを借りてパソコンに落とすしかなかった。今思えば、不便な時代だ。
というわけで、後日、さっそく近くのレンタルショップにCDを借りに行った。しかし、そこで問題が発生した。英語力に乏しかった僕は、アーティスト名も曲名もうっすらとしか覚えていなかったのだ。『THEナンタラのナンタラって曲』ぐらいの認識で店に来てしまった自分を悔やんだ。
おぼろげな記憶を頼りに借りたCDのアーティスト名はTHE BACK HORN。家に帰り、間違いに気づいた僕は膝から崩れ落ちた。(THE BACK HORNは悪くない。)
いじけた僕とTHE BAWDIESとの繋がりは、そこで終わった。
スピーカーから轟音が鳴り響く夏空の下、10年以上前の淡い記憶を思い出すとともに、偶然結び直された彼らとの関係に思いを馳せた。今はもうCDを借りに行かなくても、アーティスト名を忘れてしまっても、手元のiPhoneが解決してくれる。
懐かしさに促され、今回は確実に『ROCK ME BABY』を手に入れた。時の流れとともに思い出は薄れる反面、テクノロジーは確実に前に進んでいる。
ちょっと期待したのだが、『ROCK ME BABY』が歌われることはなかった。ステージ上には「次は新曲歌います!」と高らかに宣言するボーカルの姿があった。
あの日から10年。THE BAWDIES も、確実に前に進んでいる。
カネコアヤノはとても私的なことを歌詞にする。日常の小さな出来事やふとした考えが、解像度の高い言葉で表現される。昭和歌謡風のメロディーに乗せられたそれらの言葉は、良い意味で今っぽくない。ウォーキングというより散歩。パソコンというよりワープロ。自宅というよりおばあちゃんの家。分かりやすいようで分かりにくいかもしれないが、そんな印象だ。
ちなみに彼女のキャッチコピーは『今、一番生まれる時代を間違えた女』。
9月、大阪城野外音楽堂で開催されたライブは、僕にとって初めてのカネコアヤノだった。最初から最後までほとんどMCを挟まない姿は、『今日はただひたすらに音楽を聴かせに来たんだ!』という強い決意を感じた。開演が夕方だったとはいえ暑さの残る中、細身の彼女のどこにそんなパワーが隠されていたのだろうか。
1曲目は新曲『わたしたちへ』だった。ライブに向かう電車でひたすらリピートして聴いていたため、歌詞も頭の中にしっかり残っていた。
彼女の歌詞は平易な言葉でありながら、時折ドキッとする怖さが含まれている。『わたしたちへ』もそうだ。
自分のずっとずっと奥にある、本当のアイデンティティーを探るために、心の奥深くへと思いを巡らす時のことだ。たどり着いた場所に在るものに対して自分自身でさえもつまらないと感じたり、物足りなさを感じたりすることもあるだろう。そうしたとき、わたしたちは変わりたいと願うこともあるが、そう簡単に変わることはできない。ただ、変わりたいと願うわたしたちは、代わりがいない存在でもある。
否定と肯定が共存するこの歌詞のことを考えると、不思議な感覚におちいる。真綿で自分の首を絞めているのに、その綿の感触に心地良ささえも覚えているような感覚だ。
カネコアヤノの歌詞に怖さを感じるのは、ありふれた言葉が並んでいるのに、強烈に現実を突きつけてくるからかもしれない。あまりにも身近すぎる言葉と世界観は、優しいようでいて怖くもある。だけど、やっぱり近くで触れてみたいとも感じるし、それが彼女の魅力なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに夕陽は沈み、夏は確実に終わりに近づいていた。
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