鈴木涼美×ブルボンヌ 対談 「語られがちな存在のセックスワーカーも同性愛者も、ただ”いる”だけ。善も悪もないし、救うべきでも断罪すべきでもない」
TV Bros.誌の連載を中心に、エッセイや評論など、5年分の原稿をまとめた鈴木涼美のコラム集『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』をめぐる対談。著者である鈴木涼美さんが対談のお相手に指名したのは、女装家やライターとして活動するブルボンヌさん。お互い「語られがちな存在」であることを自覚しているからこそ、当事者として抱く違和感や、その語り口の有り様について、それぞれの立場から意見を交わします。
すずき・すずみ ● 作家。1983年、東京都出身。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。女子高生時代はブルセラ少女として過ごし、大学在学中からキャバクラ嬢などを経験、20歳の時にAV女優デビュー。東大大学院で執筆した修士論文は、のちに『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(12年/青土社)として書籍化。新卒で日本経済新聞社に入社し、都庁記者クラブ、総務省記者クラブなどに配属され、5年半勤務した後、フリーに。
ぶるぼんぬ ● 女装パフォーマー/ライター。1971年、岐阜県出身。早稲田大学第一文学部に在籍中、ゲイのためのパソコン通信ネットワークを立ち上げる。その後、ドラァグクイーンとして活動しながら、ゲイ雑誌『Badi』の主幹編集や女装パフォーマー集団を主宰。現在は新宿2丁目のMIXバー『Campy! bar』のプロデュースをはじめ、日本テレビのドラマ『俺のスカート、どこ行った?』監修、NHK Eテレ『ハートネットTV』出演ほか、各種メディアでLGBTや性の問題に関する講演も積極的に行っている。
ギャルも女装も非モテ行為
鈴木 私がこれまでに書いた本を分類すると、修士論文をもとにしたデビュー作の『「AV女優」の社会学』(青土社)が一番硬めの本で、2作目の『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)は夜職をテーマにしているのでややアングラなところもあって、一般の男女における恋愛について書いた『すべてを手に入れたってしあわせなわけじゃない』(マガジンハウス)とかはだいぶ柔らかい。で、この本『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』はちょうど中間くらいの位置付けなので、対談するなら硬めの話もできつつ、夜の話やカルチャーのくだけた話もできる人がいいなと思って、今回はブルボンヌさんにお声がけしました。
ブルボンヌ うれしい~! ありがとうね。私、涼美ちゃんの本やネットにある文章を読んでると、図々しいんだけど「シンパシー」感じちゃうのよね。
鈴木 え〜。どういうところがですか?
ブルボンヌ たとえば、涼美ちゃん大学は慶應だけど、「要領がいいからそんなに勉強しなくても行けちゃった」みたいなことを、本でしれっと書いてたでしょ。私も、いやらしい話だけど早稲田に入ったのを同じように感じてて。まあ結局、2丁目で遊び惚けて除籍だったけど!
鈴木 よく言えば器用、悪く言えば必死に頑張る印象が希薄、という感じでしょうか。ブルボンヌさんは、どういう経緯で出版業界に入ったんですか?
ブルボンヌ 大学生のときに、ちょうどメディアはバブルの時期で、宝島社の雑誌とかでゲイ特集を頻繁にやっていたの。そこに呼ばれるようになったのが最初かな。テレビのオネエバブルよりも前、1990年代初頭くらい。
鈴木 当時のメディアでは、ゲイの人たちはどういう取り上げられ方だったんですか?
ブルボンヌ 都会文化の一種というか、おしゃれな感じではあった。もともとは文藝春秋社の「CREA」っていう女性誌で「ゲイ・ルネッサンス’91」っていう特集が組まれたのがきっかけで、女性誌とか「Hot-Dog PRESS」がゲイを特集するようになって。当時はまだ、プロのオネエさんたちは別として、素人のゲイが顔出しでメディアに出ることってほとんどなかったんだけど、私は大学生で若かったのもあったし、“新世代のゲイ”みたいに扱われてほいほい出てたのよ。
鈴木 祭りには乗っかったほうがいいじゃん、という感覚で。
ブルボンヌ そうそう。だからこの本にも書いてある、涼美ちゃんが女子高生とかギャルが時代のブームとして扱われているときに、とりあえず自分も女子高生だし乗っかっておくか、っていうスタンスはすごく共感できた。
鈴木 私はギャルも女子高生ブームもど真ん中ではなく、世代的にはかなり遅れてたんです。でも真下から見ていた目の前の祭りには参加したいなって。
ブルボンヌ 本の中では「あいつはギャルじゃない」みたいなことも書いてあったよね。
鈴木 単純に茶髪だからギャルとか、あのブランドの服を着てるからギャルとか、そういうことじゃないので、けっこう厳しめに判定してましたね(笑)。
ブルボンヌ 女装も完全にそういう文化なのよ。外の人からはわからない掟や経典があって、ぱっと見では普通に女装していても、内輪では「あいつの女装には魂がない」とか言い合ってる。
鈴木 へえ〜。そうなんですか。ギャルも魂があるとかないとか言いがちです(笑)。
ブルボンヌ ただギャルの場合は、流行に流された結果ギャルっぽいファッションになっただけの子も多いだろうけど、女装の場合は「なぜ女装をするのか」っていう、そもそもの動機が安易じゃないから、ギャルよりはハードル高いんだけどね。トランスジェンダーの人と、マツコ(・デラックス)さんやミッツ(・マングローブ)さんをはじめ、ゲイベースでやってる女装の方では目的が全然違うし。完全な女性になりたいわけじゃないけど、パートタイムで女性性を出したりパロディはしたいっていう。本にも「パクリとパロディーとあこがれとモノマネと」っていう文章があったけど。
鈴木 アムラーも一種のパロディでしたからね。
ブルボンヌ 精神性の問題でいうと、トランスジェンダーの人たちは、できることならバレなくない人たちだけど、うちらはバレないと意味がないというか、本当に女性だと思われたら立ち位置が崩壊しちゃう。
鈴木 ただの派手な女だと思われるのも違いますし。
ブルボンヌ 派手ということでいえば、女装って、ゲイとしてはあえてモテないことをしてるんだよね。ゲイの世界は男っぽい男がモテの主流だから、モテたいならマッチョになるべきで、女装は究極の非モテ行為なの。そのへんもギャルに通じるところあるでしょ?
鈴木 ヤマンバとかのやり過ぎたギャルはわかりやすく非モテですけど、あそこまでいかなくても、もともとギャルは非モテだったんですよ。いまでこそAVのジャンルにもギャルものがありますけど、あれは高校時代にギャルは見ていたけど相手にされなかった男の人たちが局地的に需要しているだけで。ギャルは肌を露出してはいるんだけど、エロのアイコンとしてのイメージはなかったし、むしろ男からの性的視線とかモテは拒絶してました。シノラーとギャルは男目線から成り立ったわけじゃない、というのは当時の感覚としてあった気がします。今のギャルは可愛いけど、当時のギャルは結構どぎついし。ギャルが不良化してキャバクラとか風俗に繋がっていく、っていうのはありましたけど。
ブルボンヌ 一般的な男性にとっては、ギャルはエロいというよりこわいイメージのほうが強かったよね。だからAVでも、ギャルのAV女優はSっ気のある役を演じがち。
鈴木 思想としてギャルは男に媚びてないですからね。
遅れてきた世代だからこそ
獲得した観察者としての目線
ブルボンヌ 涼美ちゃんが高校生のときは、ギャルはマイノリティだったの?
鈴木 テレビのワイドショーや新聞を賑わせていたような勢いは、どちらかというと私がギリギリ中学3年生くらいがピークだった気はします。私が高校生になったときは、それこそパラパラやヤマンバが流行して、ギャルブームがすでに極端になっていた時期ですね。
ブルボンヌ その自分が全盛期に間に合わなかった感じは、私の世代にとってバブルがそうなの。1970年代初頭生まれは、大学生の頃にギリギリ残り香はあったけど、社会に出たときにはピークが過ぎていて、思いっきりバブルを享受することはできなかった。深津絵里ちゃんが主演の『彼女たちの時代』(1999年/フジテレビ)っていうドラマがあって、それはまさに、自分たちが女子大生になったときには女子大生ブームが終わっていたり、世の中の流行に乗れなかったことのやりきれなさとか閉塞感みたいなものへのモノローグから始まるのよね。でも、そういう遅れてきた世代特有の喪失感があるからこそ見える景色があるっていうのは、私にとってのバブルがそうだし、涼美ちゃんがギャル文化について書いているときにも感じる。
鈴木 わかりやすくギャルの素行が世の中から注目されていたのは、1995〜97年くらいがピークで、1996年の流行語大賞が「援助交際」「ルーズソックス」「チョベリバ/チョベリグ」「アムラー」っていう、トップテンにギャル関連の言葉が4つも入ってる。でも1996年って、私まだ13歳なんですよ。自分が現象の渦中にいたときに、世間がそれに名前をつけた、という順番ではなく、すでに世間から名前をつけられた現象の中に入っていった。当時もてはやされていたのは上の世代で、私はそれを真上に見ていた下の世代だったからこそ、よけいに興味があるというか、すでに1つ上の世代が作り上げていたものをいろいろ学んで知識をつけたっていうのは、あるかもしれないですね。
ブルボンヌ 全盛期の渦中にいなかったからこそ、常にちょっと引いてる感じがあるよね。観察者の目線を獲得するという意味では、それっていいことだと思う。
鈴木 そのぶん「あの子はギャルじゃない」とか言いますけど(笑)。
ブルボンヌ それはオネエさんのコミュニティも同じよ。女子コミュニティでもよくあることだけど、ゲイもお互いがどこのゾーンの住人なのかを決めがち。「〇〇専」とか「〇〇系」って分けるの大好きだし。
鈴木 でもそれってネガティブな分断というほどのことでもなくて、もっと明るいプチ分断くらいなんですよね。当時はギャルだったら「egg」とか、個性派だったら「CUTiE」と「Zipper」とか、わかりやすく雑誌でも棲み分けてましたし、そういう枠組みの中で遊んでる感覚でした。でも最近は雑誌文化がなくなって、枠組みがほとんどないままに全員がインスタグラム見てるみたいな状況なので、そこにさみしさは感じます。
ブルボンヌ ゲイの場合は、たとえばマッチョが好きかデブが好きかで読む雑誌が違ったから、女性誌の赤文字系/青文字系よりもわかりやすいかも。あと、一応「タチ」と「ネコ」っていう、いわゆる男役と女役風なポジションはあるんだけど、「リバ」(リバーシブルの略)も多いし、ねるとん的な仕分けはしにくいのも特徴ね。だから(レズビアンが意識されない状態では)女子コミュニティは全員が恋のライバルにもなり得るけど、ゲイコミュニティは相手がライバルなのか獲物なのか、ハッキリしないところがおもしろいよね。
鈴木 ギャルにとって安室ちゃんが憧れの対象だとして、私は安室ちゃんとヤリたいと思ったことはないけど、ゲイの人は「あの人になりたい」と「あの人とヤリたい」が一致することはあるんですか?
ブルボンヌ とくに男っぽいゲイの場合は、それが基本かも? 女子にとってのモテ服が、こういう服を着ることで男を魅了したいってことだとしたら、ゲイは究極、自分が興奮するコスを着て、鏡を見ながらオナニーできちゃう。
鈴木 マッチョが好きな人は、鍛えて自分をマッチョにすることも可能ってことですもんね。
ブルボンヌ 筋肉に象徴される男性ならでの身体的特徴が好きなゲイは多いけど、それは自分にも備わってるっていうね。そういった同性愛者ならではの不思議なねじれはおもしろいかも。自分の風貌がそのまま好みに直結してくるから、マッチョ同士とかデブ同士とか、同じような風貌のカップルが多いのはそういう理由。
鈴木 結婚したい男とセックスしたい男は違う、みたいな、女にとっては定番の考えがありますけど、ゲイの人たちにもそういうのあるんですか?
ブルボンヌ お金持ちと結婚することで、生活レベルが一気に上がったりとか社会的なステイタスを得られるみたいなことがゲイには基本ないので、女と比べるとものすごい純粋よ。
鈴木 打算はあんまりないんですね。
ブルボンヌ 単純に「ヤリたい」っていう気持ちだけで動いてるから(笑)。ただ、年上のおじさんからお金をまきあげてる若い子もいるにはいるけどね。あとは、セックスするまでのハードルが低いぶん、ノンケと比べると経験人数が尋常じゃない数になるのは必然よね。お互い「とりあえずヤリたい」同士だから。
性の現実を語ってほしいけど
性のエグい部分は見たくない
鈴木 この本では、本文に出てくる固有名詞に大量の注釈をつけたんですけど、それは私と同じ時代に、私と同じ文化圏に生きていた人だったらわざわざ説明する必要がないことであっても、そうじゃない人たちに伝えるにはどうしたらいいかなって考えた結果なんです。私はそういう、ギャルにしてもホストクラブにしても、その世界に触れたことがない人たちに、「うちらの世界ってこんなにおもしろいんだよ」って言語化していく作業がわりと好きで。でも独特のコードを伝えるのって、実はけっこう高度で難しいんですよね。そういう意味では、ゲイカルチャーも外の世界に伝える言語は必要じゃないですか?
ブルボンヌ ゲイカルチャーにもアイコンはいろいろあるけれど、たとえばマドンナとかレディー・ガガとか、そもそもゲイに限らず、売れてる世界のトップ・ディーヴァでもあるんだけど、どこがツボかって掘り下げ方のレベルが違うのよね。ゲイカルチャー的には、マドンナやガガをこういう目線で、こんなふうにも楽しんでるんだよって伝えることにおもしろみがある。
鈴木 情報だけならWikipediaとかネットでいくらでも調べられるけど、そうじゃないことが伝えたいんですよね。たとえば雑誌「CUTiE」だったら、何年に創刊して、こんな人気読者モデルがいましたっていうのはネットで検索すれば出てくるけど、そうじゃなくて、実はギャルとは敵対していて、ギャルは「CUTiE」読者をこういうふうに見てましたよってことのほうを、本に残しておきたい。
ブルボンヌ それって言葉の意味を再定義することだもんね。あの大量の注釈は、すごく意義のあるものだと思う。
鈴木 だから別に悪口を書いているつもりもないし、よく攻撃的だとか一刀両断とかって言われるんですけど、そういうことじゃないんですよ。
ブルボンヌ 素材を涼美ちゃんなりにおいしく料理してるだけだもんね。最近はネットで何か書くと、その料理方法に対して文句を言ってくる人が多いから、私はだいぶおとなくしくなっちゃった。
鈴木 「あの女つまんない」って私が書いたとして、それはその女性に対する人格攻撃とかじゃなくて、こっちの世界から見たら「つまんない格好してんな」とか「つまんないこと言ってるな、もっと楽しいことあるのに」って感覚だけなのに。要は、冗談が通じない人が多過ぎるってことなんですけど。
ブルボンヌ ストレート男性がもてはやす可愛い女優さんに向かって、私が「全然響かな~い」って言ったとして、それは非モテキャラ込みでの「このくらい噛みつかないとやってらんねえわ!」って話なんだけど、その立ち位置が伝わらない時代になってきてる。
鈴木 私自身、元AV女優だったりとか、いろんな後ろめたさがあっての自虐だったり開き直りなのに、そこをゼロにして言葉だけをとらえられると、正直、いやその通りなんですけど、私らの感覚もわかってくださいよ、って言いたくなります。正しいかどうかは棚上げにした盛り上がりってあるじゃないですか。それはマイノリティであることを自覚しているブルボンヌさんにも通じると思うんですけど。
ブルボンヌ もちろんそうよ。私も自虐的な振る舞いはずっと多用していたけど、最近は同じ性的少数者の人たちから「ゲイであることを自虐に使わないで」って抑制を感じる。私自身は、ゲイというかオネエ、もっと言えばオカマ自称できるタイプが持つシニカルだったり自虐が入ったりする表現にも、歴史や意義が詰まっていて愛してるんだけど、文脈がわからない、背景が通じない人にまで届いてしまったときのとばっちりがかったるくて、もうSNSとかでは「オカマすぎる」発信はしにくくなっちゃった。
鈴木 あとは、あんまり立派な人に思われても困るというか。生真面目な女性論者の人とかに、善意の目で「涼美さんのように誇りを持って性を売られている方は尊敬します」とか言われても、いや、体を売ったことには別に誇りは持ってないけど……っていう。当事者じゃない人たちに、まるでセックスワーカーを無害化するために内部に潜入した活動家みたいに扱われることがたまにあって、それはすごく居心地が悪い。
ブルボンヌ 私もゲイとして生きてきたなかで、それなりにビッチな言動やドシモな体験もしてきたんだけど、LGBTを語るアクティビスト的な文脈で扱われるときには、そういうマイナスな部分にはあまり触れないほうがいいっていう、暗黙の了解があるんだよね。一部の人に眉をひそめられる面は言わなくてもってことなんだけど、そもそも「性」の話じゃない? 現実を語ってほしいけど、性のエグい部分は見せたくないって矛盾してるよね。
鈴木 真面目な人ほどそういう傾向がありますね。
ブルボンヌ ある局面では戦略的にクリーンを演じるのはいいんだけど、使い分けじゃなく、本気で潔癖なセックスフォビアっぽい人については、「結局、性を限定してんじゃん」って言いたくなる。そこはセックスワーカーの意義や高尚な面だけを語る人に対して、涼美ちゃんが抱く感情と似ているかもね。んなキレイごとだけでもないわよね〜。
鈴木 セックスワーカーも同性愛者も、カルチャーとしての存在については語るけど、そこには善も悪もないし、救うべきでも断罪すべきでもない。ただ「いる」っていうだけで。勝手に弱者として扱われたりも、保護されたりもしたくない。そういう「なんかいろいろ語られがちな対象」としての居心地の悪さは、ずっと感じてます。
フェミニズムだけが
私を救ってくれたわけではない
ブルボンヌ 涼美ちゃんの本を読んでいると、女性から見たステレオタイプのダメな「おじさん論」もおさえつつ、嫌悪感を高め過ぎて本質を見失うことのナンセンスさも常に訴えてるよね。それは私が、一部のガチガチの「正しさ」に囚われてしまった人たちの、頑なにも見える姿を見ていて感じることにすごく近い。
鈴木 私自身はフェミニズムに反対しているわけではないのに、「あなたはフェミニストの敵です」とか普通に言われますよ。フェミニズムだけが私を救ってくれたわけではない、と言いたいだけなんですけどね。
ブルボンヌ そういう人たちには純粋な思いがあって、理想がすべて実現すればそれに越したことはないんだけど、世の中はどこまでいっても陰陽のバランスで、薄汚れているように見える面にも意味はあるし、そこを包み込むセンスを持っていたほうが、よっぽど有効だと私は思っちゃう。
鈴木 差別的な言葉が自分に向かって発せられたときに、真面目に怒るのも別にいいんだけど、それよりはその言葉を使って遊びたいというか。
ブルボンヌ ほんとにそう。私が愛する「オカマ感覚」は、つらい思いの中でセンパイ世代が生み出した、価値観を転がして笑い飛ばす武器でもあるのに、それをただ古いって奪うのは違うんじゃない?って思ってる。
鈴木 「笑ってる場合じゃない」とか真剣に怒られることありますよね。
ブルボンヌ いまはSNSであらゆる情報が平坦に伝わってしまうせいで、それまでゾーンごとにあった特有のおもしろさ、もっと言えば文化そのものが解体されはじめてる。ゲイ文化が陽の当たるところに出されれば出されるほど、かつて隠花植物的に扱われていた時代に培ってきた濃密さは、どうしたって薄くなるんだから。昼間のカフェで、普通にオネエ言葉で会話できる世代が出てきたってことは、同時に、閉鎖的だからこそ生まれた独自の文化は失われるってことだもんね。
鈴木 漂白されたほうが無害ではあるし、変わっていくことは止められないかもしれないけど、有害でデコボコの道を傷つきながら歩んできた、そしてそれを楽しんでもいた人生を否定されたくはないですよね。
ブルボンヌ 差別のせいで深刻な被害にあったりとか、救われるべき人も当然いるけれど、放っておいたほうがいい輩ってのも実際いるのよね。LGBTの真摯なテーマが語られる場が増えたのはありがたいけど、そればかり見ていると逆の偏見も生みかねない。アタシも含めて、マジメなLGBTの部分と、ひどいオカマな部分は同時に存在してる。
鈴木 ひどい女だっていっぱいいますよ。
ブルボンヌ 涼美ちゃんはさ、自分のこと可愛いって言ったりもして、自信ありそうな感じもするし、実際にいろんなものを手に入れている事実もあるわけだけど、本を読んでいると自虐もけっこうしてるよね? 実際のところ自己肯定感は低いの?
鈴木 AV女優だった過去だけじゃなく、いろんな側面で、マジョリティや正しい道からはドロップアウトしたと自分では思ってます。だからこそ、ゲイの人たちと一緒にするわけではないけど、少数派だっていう自覚もあるし、基本的には褒められた存在ではないという意識はありますね。
ブルボンヌ どんなに時代が変わろうとも、少数派だと感じれば不安になるし、その上でのやりくりの仕方ってあるよね。「卑屈なのやめなよ」とか「隠す必要ないよ」とか、軽く言えちゃう人にはわからない根深さもある。LGBTも女性も、それぞれの人生で味わってきた苦難によっては、どうしても攻撃的にならざるを得ない人がいるのも理解できるから、そこは畑違いくらいに捉えて、かと言って、昔ながらの無自覚に差別的なおじさんにも痛快なイヤミを言ってほしい。涼美ちゃんの、いい意味での「どっちつかず」な感じ、やっぱりシンパシー感じるし、それって両極に走りがちな今だからこそ、ますます必要な目線だと信じてるわ!
(了)
この対談のなかで話題にあがった本書収録のコラムは、こちらで試し読みができます。
鈴木涼美(著)
『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』
2014年から2019年までのTV Bros.連載に加え、各雑誌やWebに掲載されたエッセイ・評論・書評などをまとめた、5年分の鈴木涼美コラム集。男と女、芸能と大衆、慣習と衝動など、割り切れない現代社会の機微を的確に捉え、渋谷と歌舞伎町と研究室と新聞社を越境するなかで培った天然のフィールドワークから得た知見を綴った名コラムの数々。
本体価格:1,600円+税
発行:東京ニュース通信社
発売:講談社
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