さて、どうやってそれを解こうか。/『血の轍』『おかえりアリス』完結に寄せて【戸田真琴 2023年11月号連載】『肯定のフィロソフィー』
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※本連載はTV Bros.12月号コミックアワード号掲載時のものです
「片親パン」という言葉が少し前、局地的に流行った。機能不全家庭で育ったこどもが空腹をしのいでいた、安くてたくさん入っている菓子パンを指すネットミームである。片親パンに当たるパンがいくつか並べられた画像のなかには、わたしが「お弁当」として毎日学校に持って行っていたものもあった。五個入りの薄皮クリームパンは、文字通りびっくりするほど皮がうすく、持ってみるとその重さはほとんどクリームを皮で包んだだけのようである。クリームは甘く、五個もたべれば色んな意味で十分で、「もうまた冷凍食品ばっかり!」とかお弁当箱の中のグラタンを見て言っているクラスメイトの横で、なるべくさっさと食べる。そのとき、頭の中でモノローグをつける。「すごぉい、中にこーんなにクリームが!」そのモノローグの効果が薄れないうちに食べ終わるのがコツだった。あのセリフはなんだったんだろう? と思い返す。私は甘いものはどちらかというと苦手で、クリームパンを自ら進んで買ったことは一度もない。あ、あれは母のセリフだったんだ、とわかる。これ安いのにクリームたっぷりでいいねえ、ママだいすき、◯◯ちゃんも好きでしょう? 毎日これがいいよね? と。わたしはそのとき自分のプロフィールを、このパンを好きだという設定に更新したのだと思う。
『血の轍』で大人になった静一が夜勤のパン工場で検品しているパンが、あのパンにそっくりだった。なつかしいなと思う。夜勤の人が起きる時間も、部屋の散らかり方も、選ぶ食べ物も、すべてが実感を持って描かれているように感じられ、ほのかにうれしい。静子がおかしくなり、機能不全に陥ったかつての長部家の家の中の荒れ様も、落ちているくずや髪の毛も、なつかしい。朝食はうちも、肉まんかあんまんをチンしたものだった。本当はどっちも食べたくなかった。
その一つ一つの細かい描写がずれていない。それを知らない人が想像した架空の機能不全家庭ではない、素っ頓狂ではない、ちゃんと間違っていないのだということが、私の心を癒した。すべての人生はその人にしか本当には目撃をすることができない。私たちがそれぞれひとりずつの人間として存在している意義や意味がどこにあるのかと聞かれると、私はそう答えるようにしている。あなたの身体が感じる世界は、あなたにしか感じることができない。どんなに自分などいなくてもいいやと思おうと。根本的に私はあなたとして生きることができない、あなたは私として生きることができない、それが、人が存在することの理由の全てでいいと思っている。だけれどそれは、人が生きることを苦痛に感じる理由の大きな1つでもあると思う。私は私を降りることができない。私は私の考えてきたこと、思ったこと、言われたこと、他者の目にどう映ったかどうか、何をしてきたか、何をしなかったか、誰と関わりを持ち、誰との関わりをなかったことにしようとしたのか、あるいは誰にとって私がなかったことにされたのか、そういったすべてのものを引きずったまま生きるのは本当に耐えられないと思う。恥ずかしいと思う。自分のことを恥ずかしいと思う感覚があまりない人もいるのだということを大人になって他者とほんの少しずつ開示して対話をしようと試みるようになってから初めて本当にわかったような気がする。それを知ったとき、ずるいと思った。そういう風に育った人がいるのなら、自分のことを生まれながらに恥ずかしくて間違っている存在だと思わずに生きていられたら、いったい自分はどこまでいけただろうと根拠もなく思ってつらくなるのだ。損なわれていない自分の人生を考える。あったかもしれない人生を。もっとひどく損傷された人生も、もっとちゃんと尊厳の守られた人生も、あらゆる可能性を考える。その過程で、自分の実人生にいったい何が絡みついているのか、見ることになるのだ。
さて作品の話をしよう。押見修造先生の『血の轍』そして『おかえりアリス』、2つの傑作が立て続けに完結した。そのどちらもが、連載過程、あとがきの文章を含め到底完結まで作者の体力、精神力が持つようなものには思えていなかった。こういう深度のものを本当に書こうとすることは、人として生きていけなくなるようなこととすごく近いのではないかと思っていた。もちろん作者も売り物としての客観性を持った上で書いていたと思うが、それでもなお、わざと極限まで個人的であろうとする姿勢を貫いていたように思う。
『おかえりアリス』の連載開始当初、私はその、男性の性欲をめぐる苛烈な内省からつい、目をそらした。AV女優を7年もやっていたにもかかわらず、それを直視することに未だに耐えなかったのだ。それは、性欲をめぐる欲求に知性や尊厳が敗北させられていくことへの恐怖の現れでもあった。ほんとうに対話をしたい、あらゆる他者が、ほんの一瞬気を抜いた先であのどろどろとしたものに飲み込まれていって、話ができなくなってしまう。そういう脳内イメージにわたしは怯えていたし、そのことを憎みたくなくて、その一部にもなってみたくて、AV業界へ足を踏み入れたのだと思う。
しかし、『おかえりアリス』は思わぬ方角へ猛スピードで船を進めた。ジェンダーの解体、性欲を超越した世界へのあこがれ、欲望する対象としてではなく、気の抜けたような愛おしさの中みつめる裸体、何度でも舞い戻ってしまう沼、それでも、それでもと光を見つめ返すこと。ほんとうはずっと知っている。目が潰れる前にと僕らは目をそらして、自分がちょうどくだらないと思える程度のものに耽って、自分で自分の魂を凌辱してしまう。そして、我に返って苦しみ、やがて我に返るための道も忘れてしまう。「おかえり」という言葉に込められた祈りのような意味を知るとき、わたしたちはこれが、祝福の物語だと知る。
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