『真日』で、もう一回プロレスファンに戻れた【連載『神田伯山の“真”日本プロレス』延長戦!2022年9月号】
講談師・神田伯山&実況アナウンサー・清野茂樹がプロレスを語りつくすCSテレ朝チャンネル2『神田伯山の“真”日本プロレス シーズン2』も今夜で閉幕! 最終回の歴史コーナーは、2006年から09年の新日本を紹介した。延長戦では、暗黒期から再建へと向けたこの時代に2人がプロレスとどんな距離感だったのかを語ってもらいました。
初代タイガーマスクやアントニオ猪木VSモハメド・アリなどを取り上げたシーズン1は古代の神々の伝説、神話を聞いているような趣だったのに対し、栄光と転落、そして再生を振り返ったシーズン2は、とても人間くさいドラマだった。もしシーズン3があるのなら、現在の繁栄への道のりを清野アナと伯山はどのように語るのだろうか。そして、いつかは“コロナ禍”におけるマット界を歴史として振り返る日もくるだろう。その時は果たしてシーズンナンバーはいくつになっているのか。この番組が2人のライフワークになることを勝手に期待し、まずは、シーズン3の実現を楽しみに待ちたい。
取材・文/K.Shimbo(真日取材で印象的だったのは、昨年のG1 クライマックス決勝戦で副音声をした直後の取材。思わぬアクシデントによる決着に我々も戸惑いました)
撮影/ツダヒロキ(同じく、取材前に会場の放送席の後ろに映る観客に、不意になってしまったこと)
06年当時、新日本プロレスはつぶれてもおかしくないと思っていた(清野)
――最終回の歴史コーナーは06年からでしたが、清野さんがフリーアナウンサーとして新日本に関わり始めた頃ですよね。
清野 06年の1月に上京して、新日本の後楽園ホール大会にあいさつに行ったんですが、客席がガラガラだったのをすごく覚えています。キャパが1800人のところに、4割くらいしか入っていなかったんです。ビックリしましたよ。こんなに観客がいないんだと。それで、これは本当の話なんですけど、「フリーになって東京に来たのでよろしくお願いします」と当時副社長の菅林さん(注1)にあいさつしたら、「いいところに来てくれました。実は今日、ケロ(注2)が辞めると言い出したから、清野さん、リングアナやらない?」と言われて(笑)。「リングアナになったら巡業も行くんですか?」と聞いたら、それもやってもらうと。せっかく東京に出てきたばかりなのに、また東京を離れる生活になるので、考えた末にお断りしたんです。
――清野さんが新日本のリングアナになるかもしれなかったんですね!
伯山 まさに、人生は選択の連続ですね。それはそれで、いい人生だったんじゃないですか(笑)。
清野 でも上京してすぐに全国をバスで旅するというのはちょっと…。
――当時の新日本が低迷していることは、広島にいた清野さんにはあまり伝わっていなかったんでしょうか?
清野 やっぱり、タイムラグがあるんですよ。広島はそこまで人気が冷え切っていなかったけど、東京はより悪化していて、キンキンに冷えていましたから。新日本はこんな状況なのかと、上京して初めて知りました。あの日の後楽園ホールは会場の空気がとにかく暗くて、熱気もないし、とんでもないところに来ちゃったなと、頭を抱えて家に帰ったことを覚えています。後悔しましたけど、今さらどうしようもないですし、やるしかないと。4月から実況を担当することになったので、腹をくくりました。
伯山 正直、新日本はつぶれるなと思いました?
清野 思いましたね。そうなってもおかしくなかった。
伯山 棚橋選手や中邑選手に本気で頑張れって思ってたんじゃないですか?
清野 そうです! 僕の人生を救ってくれって。僕の命運も懸かっていたから、2人には何としてでも人気者になってほしかった。
伯山 なぜなら、自分もつぶれてしまうから。これが団体を支えるということですね。そこに清野さんもついてくるという(笑)。
清野 もはや、運命共同体でした。
――そういう時期に実況をされていて、どんなお気持ちだったんですか?
清野 モヤモヤしていましたよ。観客も集まっていないし。プロレス中継の冒頭で解説者と一緒に「今日は〇〇からお伝えします」っていう前振りを撮影するんですけど、中継席の後ろに観客があまりにいないから待ちましょうということがあって。試合開始のギリギリまで待ったけど、結局来ないから、背景にお客さんがいない状態で撮影しました。
伯山 本当に大変だったんですね…。
談志師匠を途中で見限ってしまったことと重なる、プロレスと自分(伯山)
――伯山さんは講談師になってからプロレスを観ていなかったとおっしゃっていましたが、入門されたのが07年ですよね。
伯山 演芸の世界にどっぷり行ってしまいました。当時は、清野さんが言っていたようにプロレスが冷え切った感じがして、会場に行っていない僕でも、つぶれてしまうんじゃないかと思いました。PRIDEとかが凄すぎて、プロレスを観ることがちょっと恥ずかしいという感じもありましたし。
清野 実際に06年に週刊ファイト(注3)が、07年に週刊ゴングが休刊になって。プロレスの情報を得る手段がどんどん減っていったんです。
伯山 その時に僕も演芸にシフトを切っちゃったので、プロレスに対して裏切り者なんですよ。だから、清野さんのようにずっと観ている人に敬意があります。つらい時期や暗黒期も観続けたっていう。この番組をやらせていただくにあたって、戻ってきたんだけど、自分は一回出て行った人間なんだという意識はあります。
清野 内藤哲也さんが絶対に許さないパターンですね(笑)。
伯山 許されないですね(笑)。これは、演芸の世界も同じなんです。(立川)談志師匠(注4)が病気になって、高座を聞くのがきついな、外れも多くなってきたなっていう中で、ずっと信じていたお客がいるんですよ。そして、談志師匠も弱っていたんですけど、暮れの「芝浜」で超特大ホームランを打ったんです。談志師匠はホームランを打つけど、思い切り三振もする人で。その三振があまりにも多くなってみんなが離れて行ったのに、ずーっと、ずーっと最後まで信じていたお客の前で、談志師匠は超特大ホームランを打った。なのに、僕は談志師匠を途中で見限ってしまったんです。そのことにコンプレックスというか、僕は常に裏切る人間なんだなと思って。新日本から出ていった選手にすごいシンパシーを感じます(笑)。
清野 長州力さんにシンパシーを感じると(笑)。
伯山 行ったり来たりするというか、義を貫けない。新日本のおかげでプロレスを楽しませてもらったら、つまらなくなっても観るのが義理だろうって思うんですよ。談志師匠を好きになったら、談志師匠がどうなっても観続けるのが本当のファンだろうと。だけど、それが全然できないんです。僕の本性はWJを旗揚げした長州力さんですね(笑)。
清野さんには再生工場みたいな役割をしてもらいました(伯山)
――最後に今回がシーズン2の最終回ということで、感想をお願いします。
伯山 09年までの歴史を清野さんが説明してくれたんですけど、この後はもう新日本も上向きになって、みなさんも詳しいと思うので。日本史の授業も近現代で終わるじゃないですか。それと同じですよね。我々は原始時代からやっていましたけど(笑)。
清野 しかも、そこに時間をかけすぎたという(笑)。竪穴式住居を徹底的に解説するみたいな。
伯山 それがこの番組のいいところですね。09年までの歴史を知れて、僕はすごいクリアになりました。観ていなかった期間を補完して、もう一回プロレスファンに戻していただいた。清野さんには再生工場みたいな役割をしてもらいました。シーズン3があることも願っています。
清野 もしあれば、09年以降ももちろんお伝えします。
伯山 もう一回、坂口征二さんの話題に戻ってもいいですね(笑)。
清野 そうですね。坂口さんに出ていただくのが、この番組の裏テーマですから。来年は坂口さんが新日本に合流して50年(注5)なんです。それに、テレビ朝日が新日本の中継を始めてからもちょうど50年。これは大義名分になりますよ!
伯山 それにしても、よくそういうことを正確に覚えていますね(笑)。
――シーズン3でまたお二人にお会いしたいです。最後まで楽しいお話をありがとうございました!
<次回予告>
シーズン2は終わっても、神田伯山&清野茂樹の“副音声プロレス”は終わらない! これからもTV Bros.WEBはシーズン3の種火を消さぬよう、ことあるごとに両名のプロレス活動を追い続けます。次回配信の時まで、そして「シーズン3スタートの、時は来た!」というコールが上がるその時まで、ごきげんよう、さようなら!
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