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「キラキラ消えない死者、禁書を読めない生者」マイ・ブロークン・マリコに寄せて【戸田真琴 2022年2月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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 私にだって、「あんたが死んだら私も死ぬ」とか本気で言えちゃう頃があった。「私が死んだ後あんたもすぐに死んでくれなきゃ嫌だ」とか、「死ぬときは一緒じゃないと嫌だ」とか言い方はいろいろあるけれど、要は愛というものの最大の敵を”死”だと思っていたのだ。死だけが愛を分かつだろう(そう、それさえなければ愛は不滅だろう)というのは精神の未熟さゆえの都合の良い妄想で、現実、ほとんどの場合では肉体の死よりもずっと先に愛の死がおとずれる。それに落胆して、また別の愛の発生を待って、その取り扱いに右往左往して、また愛の死を味わって、そういう繰り返しで人生は進んでいく。肉体の死は突然おとずれることもあるけれど、大抵の場合、思いのほか……思ったより、やってこない。死にたいなって思う程度ではやって来ず、いつ来るのか、どのくらい先に待ち構えているのかの予測が殆ど立たないという時点で、生きている時間を自分の死について考えることに割くのも限界がある。人生のはじまりから終わりまでの時間の中で、わたしたちは自分の肉体以外のさまざまな”死”――他者の死や感情や関係性や環境の死、そしてフィクションの中に描かれた死、それらを擬似体験していくことで私たちは死を思う。どんなに真剣に考えようと、それを体験しない限りは、死んだ後のことなんてわかるわけがない。当然のことだ。

 先日、自分の監督した映画の劇場版パンフレットのコンテンツとして、キャストの方々と座談会を収録した。撮影時の思い出や作品を見ての感想などの中に、真にせまる言葉が聞ける瞬間が幾つもあり、心底感激しながらの幸福な時間だった。そろそろ話もまとまろうとしていたところで、自分の意にやや反して、こんな言葉が出た。「私にとってものをつくることは、喪失したもののための弔いのような作業で、描かれたすべてはきっともう失われたものなのだと思います。“芸術は時に、それをつくらなければ前に進めないもの”というのはきっと本当で、この作品は賛歌であり、お葬式のようなものなのかもしれないです」それは記事にするにはきっと蛇足だったのだけれど、あまりに心ほどけるよい対話のあとだったので、脳内に浮かんだことを気づいたら口にしてしまっていた。声になってようやくはっきりとわかった。どんなに忙しくても、お金や心の余裕がなくとも「今この瞬間につくらなければいけないもの」があるのは、もう死んでしまった何かのことを鮮明に描写することにどうしてもタイムリミットがあるからなのだ。どんな鮮烈な感情も、あるいはグロテスクな想いも、なんの形にもしないうちに失われていく。なんだか綺麗でぼうっとした、ありふれたなにかになってしまう、そのことがどうにも最悪だ、と思ったからなのだ。

「マイ・ブロークン・マリコ」のことを思い出し、読み返す。主人公のシイノが外回り先で昼食途中に見たニュースにて、親友・マリコの自殺を知る。マリコの家庭環境を思い返したシイノは、マリコの実家に行き包丁で脅し、殴られながらも遺骨を奪い去る。生前もらっていた手紙の数々や記憶を呼び覚ましながら、遺骨を胸に抱えたまま海へ向かう、という話だ。
 彷徨った先でひったくりにあい、自暴自棄になりながら居酒屋で酔い潰れ、脳内をめぐる記憶と対話するシイノに対して、居酒屋の客たちが好奇心あらわに話しかけまくるシーンで、シイノは大声で、

「てめえらとくっちゃべってる場合じゃねえんだよォ!! マリコと交信できなくなんだろォォがぁぁああ」
「こうしてる間にもどんどんあのコの記憶が薄れてくんだよ きれいなあのコしか思い出さなくなる…… あたしッ何度もあのコのことめんどくせー女って…! 思ったのにさあ……っ」
と喚く。そう、シイノは遺骨を抱えながら彷徨う道のりを、寝ても覚めても、脳内に残ったマリコの残骸と交信し続けていたのだ。最悪なことの数々を思い出しながら、やり場のない思いを張り詰めながら知らない町を彷徨った。

「喪に服す」ということはどういうことだろう、とたびたび考える。流行りの漫画ではキャラクターが死に際に過去の後悔を浄化されてキラキラとした表情で絶命したり、真っ暗な空間ですでに死んだ家族と再会して笑顔で手を繋いで歩いていったり、死後のものであるはずのキャラクターが生者に対して新たにメッセージを語りかけたりする。だけれど実際の死では、死者は生者にあらたに言葉を語りかけることはない。その生涯にどんな後悔があったのか、残された者に対してどのように思っていたのか、今どのように想われることを望んでいるのか、そういったことを知る手段はない。当人以外に読むことのできない秘匿の分厚い日記帳を、バックアップもとらずに燃やされてしまうようなことなのだと思う。永遠の黙秘。真実を知る術が誰にもなくなるということ。死とはそういうものだと思う。
 死者を問いただすことはできない。何をどうしてほしいのか、その意見を伺うことはできない。それは、できることがほとんどなにもなくなることと同義だ。残された者にできることは途方もなく限られている。生きるか、死ぬか、歩き続けるか、その3択しかない。

 年末、長久充監督の「DEATH DAYS」という短編映画を観た。森田剛さん主演で、12月29日から31日にかけて、30分ごとで全三話、YouTubeで配信された作品だ。
「自分の死ぬ日(デスデイ)がわかっている」(月と日だけがわかっていて、何年かはわからない)という設定のなかで一人の男の人生を辿っていく作品で、「死ぬかもしれない日」のことを考える登場人物たちの姿に、自ずと自分自身の死への向き合い方も考えたくなる快作だった。
 なにより心に残ったのが、主人公の恋人の死、それを取り巻く前後のシーンだ。ふたりはとてもいい関係で、死までの時間を自分たちの創意工夫でおもしろおかしくキュートな時間に変えていった。それゆえ、残された主人公の胸に空いた喪失の穴が、途方もなく深い絶望・そして虚無として描かれる。
 きっとこの作品の意図はそれぞれ見た人がどう持ち帰って考えるか、というところにあるのだとも思ったので、私も自分なりのデスデイズを考える。
 もしも人生で最も大切な人が死んでしまったら、どうしたらいいんだろう?

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