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"へび"という曲を聴いて


ヨルシカの「へび」という曲の歌詞を聴いてみた感想を綴らせていただきます。

こちら、ヨルシカのYouTubeアカウントになります。
🔗https://youtube.com/@nbuna?feature=shared
※ご本人様の意思とは全く関係のない個人的な解釈となっておりますので、このことをふまえたうえでの閲覧よろしくお願いいたします。

歌詞

行方知らずのあの雲を見た
わたしの鱗はあなたに似ていた
舌は二つ、まぶたは眠らず
ぼやけたよもぎの香りがする

行方知らずのあの雲の下
わたしの心は火の粉に似ていた
靴はいらず、耳は知らず
冬の寝息を聞く

ブルーベルのベッドを滑った 春みたいだ
シジュウカラはあんな風に歌うのか
海を知らず 花を愛でず 空を仰ぐわたしは
また巫山の雲を見たいだけ

行方知らずのあの雲の下
あなたの鱗は日差しに似ていた
雨を知らず、触れて熱く
ぼやけたよもぎの香りがする

芽吹く苔のベッドを転がった あの頃みたいに
カタバミはこんな風に柔いのか
春を知らず、花を愛でず、風を舐めるわたしは
ただ海の深さを見たいだけ

あの大きな海を経れば
あの雲の白さを見れば
あなたとの夢の後では
他には

ブルーベルのベッドを滑った 春になれば
ホオジロはあんな風に笑うのか
海を知らず、花を愛でず、空を仰ぐわたしは
ただあなたを見たいだけ
見たいだけ

行方知らずのあの雲の下
わたしの心はあなたに似ていた
舌は二つ、まぶたは眠らず
いつか見たへびに似る


ヨルシカの「へび」という曲。
歌詞の言葉をひとつひとつ眺めて、なんて真っ直ぐで、清らかで美しい曲なんだろうと思った。

この歌詞に登場する"へび"が、自分と似た鱗を持つ雲に憧憬を抱いているように感じる。
雲はへびと同じように、足がなく耳もない。ただ空を這うだけ。
しかし、雲はへびの知らない世界を知っている。広い海、美しい花畑、人間の住処。

一方でへびはまだ知らぬことが多い。
シジュウカラの鳴き声、カタバミの柔らかさ、ホオジロの笑み。
それらを知り、へびは何かを新しく知るということに感動を覚えたのかもしれない。
自分と似た鱗を持ち、同じように空を這う雲が、これら以上の感動を得ているのだと思うとへびは雲への憧れを感じた。

海の広さも知らず、花を愛でず上を滑るだけのへびが、空を仰ぐたびに目に入るのは同じ鱗を持つ雲だった。
そんな雲を見つめるたびに、心に火の粉が舞っているかのように胸が熱くなる。
へびは雲との出会いをきっかけに、※タウマゼインを感じたんだろう。
(※タウマゼインとは、一般的に、未知に触れたときに体験される驚き、驚異、驚愕のことを指す)

新しい何かを知るという知への欲求は、愛ともいえる熱量を持つ。
知は己の世界を広げてくれる。狭い世界にいたあの頃にはもう戻れないような驚愕と感動をくれる。
それを噛み締めるために精一杯追い続けることを、
愛といわずに何というべきか。
まさにこの曲は、愛の歌だと思った。

ここからは余談です。私の持論です。

私や、私以外の誰も、この世の全てを知ることはできないと思います。
いわば、けして自分の手で掌握できない世界。
だからこそ、その膨大な未知を秘めた魅力に取り憑かれて突き動かされてしまうんだと思います。
手に入らないとしても。

誰かが愛といったように、信仰といったように、強い感情が原動力になる。

論理では説明できない感動が、人生を懸けるほどの夢中を生み出すこともあるのではないでしょうか。

ここからはとくに極まった持論ですが、
人生というものは"ただ生まれたから生きるだけ"にすぎないと思います。
死という結末に向かうために生きるだけ。大枠はそれだと思っています。言葉を選ばずに言えば、死ぬまでの暇つぶし。

まだ20年しか生きていない私がいっても信ぴょう性はないですが、私たち人間は、何度歩んだ人生を繰り返しても同じ選択をして、同じ結末を迎えるのだと思っています。
それこそ、同じ時間軸で巻き戻りでもしない限り。

はじめから全て決まっている。
そのくらい、私たちの人生というものは、確固たるものなんじゃないかと私は信じています。

だから、そのなかでどれだけ幸せや悦び、楽しさを感じられるかを大切にしていきたい。
もちろん、感動もその一部です。

たとえ何か大きなことを成せなくても、
そうやって何かに夢中になる生き方は、後に必ず訪れる死を受け入れるための経験になるんじゃないでしょうか。

と、ふと思いました。

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