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誰もが傷付くお笑い

 漫画の「美味しんぼ」から自分は数多くの事を学んだ。何巻に収録されていたエピソードだったかは忘れたが、人里離れた料亭の近くを流れる川で、何らかの理由で心に傷を負ってしまった女性と共に山岡さん達が魚を捕る話があった。川魚の愛くるしさに女性は「わあ、きれい!こんなに小さくても生きているのね!」みたいに声を上げて感動するのだが、それらは次の場面で網の上で焼かれて彼等の元に提供される。絶句する女性に向かって山岡さんが「これが人間の業なんだ。生き物の命を奪わないと俺達は生きていけないんだよ。さあ、食べるんだ」と諭し、ショックを隠し切れないまま女性は魚の塩焼きを食べ、美味しさに感動して元気を取り戻すみたいな話だったと思う。食材とは、「かつて生きていた存在」なのだという"後ろめたさ"を常に頭の片隅に留めておく事、そして、何故人間は他の生物の命を簡単に奪って良いのかという問い掛けには、「人間は頭が良くて偉いから」みたいなどうしようもない答えしか用意出来ないのを自覚する事、「美味しんぼ」に伏流するその業への意識が、この作品に他の料理漫画とは違う不思議な視点を与えている。
 料理漫画の主たるテーマとは「おいしい料理をある共同体の内で分け合う事によって、その集団を構成しているメンバー間の関係を円滑にし、ひいてはそれにより幸福な社会を目指す」だと思う。しかし、桜の樹の下に死骸が埋まっている様に、「美味しんぼ」を構成する屈託の無い笑顔の下には犠牲となった弱い生物達が敷き詰められている。それらの生物に罪は無く、罪を背負っているのは人間なのだ。山岡さんはそう主張する。「美味しんぼ」には見えざる階層がある。

 「誰も傷付けないお笑い」が希求されるようになってから久しいが、自分はそんな物が存在するのかどうか疑問に思っていた。ギャグとは大抵の場合、ある対象をバカにする事で自らの特権性を意識し、そしてその特権性を共有する事で周りの人達との円滑な関係を築き上げる行為だ。その人が見た「自分の属している世界のしょうもない部分」を戯画化して周りと共に吊し上げるのがギャグな訳で、ギャグとは何なのかと言うと「世界をどの様に憎んで(または嫌って、もしくは馬鹿にして)いるのか、その容貌をその人独自の方法で戯画的に説明した物」だと私は考えている。シャーロックホームズの小説で、単なる5粒のオレンジの種がある集団の内では全く別の意味を持ち始める様に、"符号"が理解できれば、そのギャグはそのまま、発言者と同じ階層に入る事が出来る招待状になる。
 「美味しんぼ」が特徴的なのは、「料理とは、他の生き物の命を奪う事」なのだという事実を無視しない事により、"食事"自体に"ギャグ"と同じ特性が与えられている点である。暖かく幸せな仲間意識、その下には見えざる階層が敷かれ、弱い存在が踏み躙られているのだ、という構造がそこには示されている。

 「美味しんぼ」でお菓子を題材にして究極、至高の両陣営が対決する際のエピソード。山岡さんは、仙台の有名な駄菓子屋のご主人の「駄菓子の甘さの基本は干し柿である、干し柿の甘さを越えてはいけないのだ」という発言を紹介し、「それはまさに至言だと思う」と自らの意見で締め括る。「自然で素直な甘さ、我々の風土の生んだ甘さ。それを忘れて外観の華やかさと味と香りの刺激の強さを求めて菓子を作っていっては、歪んだ物が出来上がると思う」。
 
 また別のエピソード。「究極のメニュー」の創作に行き詰まった山岡さん達を見掛けた中松警部と大石警部は、行きつけのタンメン専門店に彼等を招待する。「タンメンしかありません」と書かれたノレンに「こういう店は美味いんじゃないの!?」と期待する山岡さん。いかにも職人然とした店主の前で「ここのタンメンは日本一だ」と説明した警部は、当の店主から「バカヤロー、世界一だい」と返される。タンメンを食べた後で「このタンメンは宇宙一!」「このタンメンは銀河系一!」と褒め称える山岡さん達に感動した店主は勘定タダを宣言し、後に続けとばかりに大袈裟な褒め言葉を言おうとし、結局何も思い付かなかった警部は「ええいチクショウ!全員逮捕する!」と苦し紛れに叫び、その場にいた全員がドッと笑う。
 しょうもねえなあ、と自分はこの話を最初読んだ時に思ったのだが、ある時、このタンメン屋のエピソードは、山形の駄菓子屋のご主人の発言と同じ事を主張しているのだと気付いた。
 山岡さんや警部が浮かれ気分で発したギャグの素となったものは、タンメン、つまり野菜や小麦の命だ。それらの犠牲によって発せられたギャグとは、ある程度の面白さに抑えておかないと、恐らく、歪むのだ。ギャグ自体が歪み、際限無くエスカレートし、そしてそれを共有する集団自体をも血の匂いで歪めてしまうのだ。「全員逮捕する!」くらいで面白さを止めておかないと、共同体はその刺激に耐えられず崩壊するのだ。
 団欒とは卑怯な行為でもある。生き物の命を奪ったという業を、集団で共有する事で有耶無耶にしてしまうのだから。その様な行為において、見境無く"面白さ"を追い求める事は、自らを"神"と同じ高みにまで押し上げる愚行に他ならない。そして、そんな事に真人間は耐えられない。それが「美味しんぼ」に込められた主張であったと思う。

 海原雄山が招待されたすき焼き屋で出された料理に難癖を付ける話が「美味しんぼ」の初期にあった。すき焼き、しゃぶしゃぶ共に牛肉の特徴を理解していない日本人による愚かな調理法である事を吐き捨てた末、海原雄山はこう言う。
 「これでは死んだ牛も浮かばれんわ」と。

 美味しく調理すれば死んだ牛が浮かばれる。そんな事があるわけが無い。自分が食われる為に殺された牛だったとして、どの様な場合に浮かばれるのかと言えば、自分の肉を介して伝染病が蔓延して人類が死滅した時くらいだろう。
 「美味しく食べれば牛も浮かばれる筈」という考えは、生き物の命を奪った罪悪感を薄めたいという願いを込めて発せられたという点では、山岡さん達のタンメン屋でのギャグと同質の物である。しかし、悲しいかな海原雄山には友達、原罪の重さを共に分かち合い、下らない物へと変えてくれる関係にある人間がいなかった。「生き物の命を奪いながら幸福でいる自分」という業は純度の高い矛盾として彼の中で沸騰を続け、遂には「殺した牛も美味しく食べれば浮かばれる」という認知の歪みとして彼の内で結晶化した。ギャグとして一線を越えたのだ。

 海原雄山が交通事故に遭って倒れる話がある。アジア各国の首脳を招いての饗宴が美食倶楽部で催されようとしている矢先にだ。己の容態をも顧みず病院の布団から起き上がり美食倶楽部に向かおうとする海原雄山を、「アジアの首脳陣をお招きする大事な宴会であることは、よくわかっていますが」と栗田さんは必死で諭そうとするが、それに対して海原雄山はこう答える。
 「客の社会的地位など関係ない。美食倶楽部で客をもてなすのは、その客が誰であろうと、私にとって真剣勝負なのだ。命にかかわらない真剣勝負はない」。

 命にかかわる真剣勝負。これは要するに、アジア各国の首脳陣の命も、本人達の知らぬ間に、ポーカー台に載せられたチップの様に、ただ賭けられていたという事だ。ただ美食という概念の名の下に、食材も、海原雄山も、アジア各国の首脳陣の命も全てが等価値と見做されて俎上に載せられる事態。それを海原雄山は"饗宴"と呼んだ。
 これが海原雄山が辿り着いたギャグの地平だったのだと思う。食材も料理人も客も全てが「美食」という価値を全うし、「一つ上の、知られざる階層」へとその身を賭して仕える事。自身が神であるという尊大な妄想に身を任せる事を己に許さず、それでいて"ギャグ"を可能な限りエスカレートさせる離れ業。食材も料理人も客も、全員が同じ場所に居る為の方法論とは、彼にとってそれしかなかったのだ。彼が見出したのは「誰もが傷付くお笑い」であり、その致死量のお笑いが適応する「誰も」の中に自分自身を加えた時に、海原雄山は、バットマンのジョーカーより偉大かつ荘厳な存在と化したのだ。

 「誰も傷付けないお笑い」というものがあるとして、その境地に辿り着く為には非常に高度なスキルが必要とされるだろう。私はそれより手っ取り早い方法として、「受け手が微細なギャグの気配をいち早く察知して面白がる」のはどうかと思っている。さながら、盆栽の良し悪しを判断する際は受け手にも技量やセンスが必要とされる様に、海原雄山の全身から滲み出る「ギャグの気配」をそれぞれが敏感に感じ取り、そして己が身を、信じた物に捧げ続けてきた男の姿勢に深く感動しながらも、屈託無く笑う事が出来たなら。"ギャグ"が起こり、それが誰かを傷付けてしまう、その前に笑うという行為がギャグそのものの殺傷力を抑制できるとしたら。「誰も傷付けないお笑い」とは、その様に受け手にこそ技量が必要とされる概念であり、それが達成されたその時こそ、日本文化の重要な概念「わび・さび」が、真のクールジャパンとして結実する瞬間ではないかと思っている。
 




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つやつやと実っている稲穂
なあ、頼む……たったの5ドルでいいんだって… 確かに昨夜はツキが無かったよな、ベニーがヘマ打っちまって…いや、イカサマじゃねえ、生まれ故郷のアリゾナに誓えるぜ、ただ必勝法があるのさ…次は負けねえよ…なあ、ハニー、5ドルでいいんだ…マンハッタンの夜景の様に俺を愛してくれよ…