ライナスの毛布としてのマイブランケット
生活に必要なものだけ持ちたい。でも肝心の必要なものとは何かわからない。ブランケットは必要なのか否か。そんなこと考えたこともない。というのが普通なんでしょうけど、そのへんを考えてみました。
生活する中で要らないものを全部省くと一体何が残るのか。「茶碗」らしい。
小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)では日露戦争での日本陸軍の英雄、秋山好古の暮らしぶりは見事だった。飯を食うにも酒を飲むにも客人をもてなすにも茶椀1つ。ほかには何もない。それはそれで見事な枯れを体現していた。即身仏のようだ。生き方そのものだと感じるし、開眼させられるようにも感じる。でも。
自分がしたいのは大量に溢れる無駄なモノから解放されたいということ。引き出しからお気に入りのペンをすぐ取りたいだけだ。でも世界はほしいものにあふれているのだ。すぐ引き出しはいっぱいになってしまう。
身の回りにあるそれぞれが生き生きとアクティブであり続ければ絶対量は関係ない。きっとスペックも関係ない。消耗品も含めて、ロングライフであればいいんじゃないか。
家でくつろぐ。ということを真剣に考えてみたときに必要な要素はなにかを考えると、家とか家具とかスケール大きめにまず発想する。
逆のアプローチとして、小さいものから入る手もあります。可愛い鳥の置物や、花瓶を飾りたい。でも片付かなくて、なんだか落ち着かない。スペック高いものもどんどん発売されるから選ぶのに必死だ。
そこから解放されるために選ぶべきものはなにか。肌触りのいいものではないかと思う。3つ目のアプローチとして、肌に近いところから見直すというのはどうでしょう。
スヌーピーにライナスという男の子が登場する。いつも頬に毛布を持っている。それがなくなるととたんに不安になってしまう安心の毛布だ。
アニメで見ていたときは、毛布がないと落ち着かないなんて弱々しいとネガティブにとらえていた。しかし選ぶものが多すぎて、絶え間なく取捨選択し続ける中で羅針盤のようにこれがあれば安心と安定感抜群に寄り添ってくれるものがあるとないとでは心の安定感が違うのではないかと思う。
愛着がある手触りに触れ続けると落ち着きませんか?結論的に家でくつろぐ事を実現するためのプロダクトとしてのブランケットが存在する価値の大部分がここに尽きると思うのです。
雑貨店勤務時代から疑問しかなかったプロダクトにブランケットがありました。毎年夏の終わりから秋にかけて店舗にやってくる紙帯できつく縛られたフモフモ毛の柔らかブランケット1980円。
可愛い柄で使いやすいミニサイズで手頃な価格。まあまあ温かくて、シーズン終わると部屋の隅に追いやられる。ブランケットは冬に向けて買うもの。勉強や家庭で仕事するときに暖房器具と補完的に使うと快適に過ごせるもの。大腿筋を温めることで身体が冷え切らないように担保する装置。ともいえる。
価格とスペックで追うとパフォーマンス高いんですが、愛着もちにくい。安いから毎年くらいで買い換える。前のはどこにいったかわからなくなる。または捨てる。店には毎年並んで、秋には棚いっぱい並んでいたのが冬になるときれいさっぱり売り切れ。SDGs的にじゃなくても変だと思うんです。だからネガティブに考えていました。それより暖房効率を上げた方がいいし、暖かい部屋着で充分。
著者がブランケットに出会ったのは、北欧のプロダクトを輸入する会社との商談の場。スウェーデンでは家庭に1枚ではなく、1人1枚のマイブランケットを持つらしい。共有せず自分だけの大切なものとして生活を共に過ごす道具として。
大判のサイズと高価格。コットンとウールで素材違い。なんならサイズも何種類もあって、どれを選んでいいかさっぱりわからない。既知のプロダクトと距離がありすぎる。
聞いて理解できたのは春から秋にコットン、冬のウール。ならば(担当の人柄に惚れて)騙されたつもりで実際使ってみよう。
居住地富山県。夏は蒸し暑く、冬は雪が降る。一年通して雨が多く、部屋ごもりを余儀なくされるケースが多い土地柄。特に冬場の生活習慣として北欧のライススタイルに共感を覚えやすい場所。
富山の冬は冷える。まずはウールから。2月まではウールのブランケットが温かい。身体に巻くほど大きくて、すっぽり入ると熱を逃さない。アクリル毛布のなんとなく寒い感じと違う。なんならエアコン切って包まってみようかと挑戦したりしながら過ごす。3月くらいから太陽の光がまぶしく注ぎ始めて自然と活動的になり、ブランケット生活から少し抜け出す。と、すっかりウール片手に生活していたわけです。4月あたりからウール片付けてコットン。と思っていたら、日によってはウールが気持ちいい。昼間はコットン、夜はウール生活が始まる。次第にコットンを使うよりウールのほうが涼しいときが見つかるし、コットンの肌触りが手放せないときが見つかる。
なにをいいたいかと言えば、愛着が根拠になって、細かな気づきを与えてくれるんじゃないか。ということ。モノの一面だけじゃなくて、意外な発見ももたらしてくれることで、そのものだけではなくて、素材や色合い、そこから得られる心の変化みたいなことに気づきが広がっていくと、生活への態度が変わる。
生活がルーティンでなくなったとき、日々が生き生きと動きだす。
これがあれば安心。ホッとする。そういう体験が高スペック買い替え欲求から解放されるきっかけになればいいなと思うのです。
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