東京大学ブラスアカデミーの黎明期
前回の記事では東京大学ブラスアカデミーができるまでを書きましたが、今回の記事では黎明期(おおよそ第1回定期演奏会)までのエポックメーキングな出来事を、できるだけ順を追って書いてみます。
駒場祭ミニコンサート(1994.11.18)
「東大B.A.駒場祭ミニコンサート 当日時間割」と書かれた、ルーズリーフに手書きのドキュメント(文責 笠松さん) (*4)
「東京大学ブラスアカデミー駒場祭ミニコンサート プログラム」とある、コンサートパンフレット(*5)
それぞれのデジタルアーカイブが現存しています。公開許可をいただいたのちに公開したいですね。
ブラスアカデミーのデビュー演奏会となった、駒場祭ミニコンサートの演奏曲目です。
指揮者に関して記載がないのですが、全曲 廿日岩修二 さんの指揮です。
デビュー曲は前の記事でも書いた、93年の吹奏楽コンクール課題曲のマーチ・エイプリル・メイ。
2曲目の「主よ~」は、編曲者の記載がありませんが有名なリード編曲の楽譜。
ピンクパンサー(のテーマ)は、小林悟さん(1期)によるチューバソロです。
小林さんは東京大学退学後もう一度合格してブラスアカデミーに再入団しているはずなので、(1期/7期)とかいう感じかもしれまません。間違っていたらごめんなさい。
そしてプログラムの裏面には楽団紹介があります。
駒場祭コンサートまでは(対、他の吹奏楽団という意味では)アングラで活動していたブラスアカデミーですが、この駒場祭ミニコンサート公式に東大内の3番目の吹奏楽団(吹奏楽サークル)としてデビューして、既存の吹奏楽団に挑戦状を叩きつけるわけです。出演者名簿は公開しませんでしたが、そこにいるメンバーは応援部吹奏楽団を退部したメンバー、兼部しているメンバー、吹奏楽部と兼部しているメンバーが大半なわけで。
表向きには「共存共栄」を訴えつつも、現実問題として人的リソースの奪い合いになるわけですから裏の感情的にはよろしくない状況がずっと続いていくことになります。
部員は27名とあり、創立時から5名増えています。また、この駒場祭コンサートは団員のお友達の他大生数名ににエキストラをお願いした記録が残っています。
タイムテーブルのほうですが、ポイントを絞って内容を記載すると以下のとおりです。打ち上げは駒場寮でやったんですねー(記憶なし、つちだは吹奏楽部のリハーサルだったかも)
年が明けて新体制
初代代表の笠松さんは4年生で95年の3月に卒業~就職が決まっていましたので、代表の交代、決まっていなかった各係の配置含めた新体制づくりが94年12月末までに実施されます。
<新体制役職(案)>と書かれた平成6年(1994年)12月5日の日付がある、笠松さんの手書きの資料(*6)
東京大学ブラスアカデミー 新体制役職 (平成七年一月~) と書かれた、ワープロで縦書きの資料(*7)
が現存しています。
「大倉」というのが笠松さんのあとを継いで代表になる大倉健嗣さん(1期, Trb)。「五十嵐」というのが、初代副代表になる五十嵐冬人さん(1期, Trp)。
新体制の役職については、アンケートを取って自薦他薦を実施したようです。両名とも応援部吹奏楽団出身で、笠松さんとともに初期の初期からブラスアカデミーの立ち上げに尽力されました。
役職(案)に書かれた名前は割愛しますが、<補足説明>欄にブラスアカデミーの役職に対する基本的な方針が描かれています。
「3年生の学年が楽団の運営を主導する」という、おそらく今も残っているであろう基本方針が示されています。
12月に定期演奏会を置く1年のサイクルを念頭に、「2年の定期演奏会が終わり年が明けてから、3年の定期演奏会までの1年間を3年生がしっかり運営してね」「最初の1年(1995年)だけは特例になるよね」という考え方です。
実際に大倉さんは3年の定期演奏会(1996年12月の第2回定期演奏会)までの2年間代表を務められ、おそらくブラスアカデミーの歴史でただひとり「2年間代表を務めあげたスーパーマン」なのです。
副代表の五十嵐さんは1995年の春シーズンをもって諸般の事情で退団され、副代表の席はしばらく空席になります。このあと、1995年入学(2期)の中で遠藤信一郎さん(Fg)を学年の代表として選出し、第1回定期演奏会後の1996年1月に副代表に就任されます(その後1997年1月に大倉さんのあとを継いで代表に就任)。
なので笠松さんが言い遺されたことをわりと早い段階で反故にしてしまっているのですが、このあたりの経緯で「3年生の学年が代表」「2年の学年から副代表」という制度が成立しています。(代表は今でも3年生の学年からですが、副代表が今も同じかどうかは実は把握できていません。)
私個人的には「優れた制度設計」「変化への柔軟な対応」が組織を持続的に成長させるためのコツだと思っています。そういった意味でブラスアカデミーが30年続いた礎を築いていただいた笠松さん、大倉さん、他初期メンバーの皆さんの先見の明たるや素晴らしいですね。
※前の記事でも書きましたが、つちだは1994年の12月まで吹奏楽部と兼ねながら活動していたので、このあたりはまだまだ空気です。希望して指揮に名前を置いていただけはしたのですが。
1995年の新勧(新入団員勧誘)活動
1995年の新勧活動、つまり2期生に入団もらうための活動が1995年前半のヤマ場でした。知名度も実績もお金も楽器もないできたての楽団が、「すべて持っている」2つの吹奏楽団相手に獲得競争を挑まなければならないわけです。
結果を先に書きますが、この年の新勧活動は大成功を収め、1995年6月22日付の部員名簿(*7)によると、58名の1年生が入団してくれることになります。
経験者が約7割、初心者が約3割程度の比率だったと記憶していますが、経験者はみんな楽器が上手で、初心者はみんな向上心に溢れていて、イケてる集団だったように記憶しています。
第1回定期演奏会後の1995年12月20日付の部員名簿(*8)でも52名の1年生が名を連ねてくれているので、定着率もかなり高かったことになりますね。
新勧活動の軸は大きく2つ。3月10の前期日程合格発表の直後から延々続く駒場・本郷の両キャンパスでおこなわれる各種新入生手続きの場を利用した勧誘活動。そして4月の新歓演奏会。
新勧チラシ、新勧パンフ
当時、勧誘活動はさらに「新勧チラシ、パンフといった出版物」「実際の勧誘の場で使われるマニュアル」「アンサンブルなどのデモ演奏」あたりのコンテンツに細分化されていました。
先に余談を書いてしまうと、新勧の場でのデモ演奏といえば、東京大学民族音楽愛好会さんの「コンドルは飛んでいく」。今もあるかはわかりませんが「いつまでも耳に残る音楽」というのはテレビの中以外でも存在していたんですね。
新勧チラシ、新勧パンフは今でも現存していまして、これらの制作(と30年にもわたる保管)に貢献されたのが、広報のリーダー的存在だった寺沢憲吾さん(1期/新2年, Cla)です。この内容がすごい。権利関係と個人情報関係をクリアして、全世界で活躍するブラスアカデミーOBOGの皆さんと現役団員の皆さんに見ていただきたいです。テキストですごさを伝えられる自信はありませんが、伝えてみます。
すでにお気づきかと思いますが、この新勧チラシは東京大学吹奏楽部さんとブラスアカデミーによる共同制作です。新勧活動にあたり吹奏楽部さんと「自身の楽団の長所、差別化ポイントを訴える」「他団の非難はしない」という紳士協定を結び、新入生にわかりやすくかつ公平な目で選択できるよう最大限の配慮がされています。チラシの内容から応援部吹奏楽団さんがこの紳士協定に含まれていないこともわかりますが、声がけはしたものの乗っていただけなかった、ということだったと記憶しています。
前の記事で書いた、ブラスアカデミー創立時の企画書、設立の目的にある「吹奏楽団や応援部吹奏楽団と互いに切磋琢磨し」をちゃんと体現しています。吹奏楽部さんはご自身の歴史、伝統や活動の質に誇りと自信をもっていらっしゃいます(要は並べて比べたら負けない自信がある)。立場が弱いブラスアカデミーが新入生に選択されるためにはまずは認知してもらったうえで、差別化要素をしっかりと打ち出して理解してもらわなければならず、吹奏楽部さんのプライドをうまく利用したとても賢い戦術だったように思います。
このチラシの他にも、ブラスアカデミー独自のチラシ(サークルオリエンテーションや新歓演奏会の宣伝用)も複数作成されており、コピーが残っています。
そして新勧パンフ(*10)。サークルオリエンテーションの前のタイミングで配布されたものと記憶しています。全編はとても紹介しきれませんが、
表紙 クラリネット、トランペット、ホルンを持った3人のアバターさん
駒場に生まれた新しい音楽世界 東京大学ブラスアカデミー
'95 サークル紹介パンフレット
P.1 新入生の皆様へ (代表 大倉さんのメッセージ)
P.2 東京大学ブラスアカデミーは
P.3 1994年度活動内容・1995年度活動予定
P4. 通常の練習は… 部費… (練習日や部費に関する事務的な説明)
P.5 普段の練習 (絵=アバターさんたち と メッセージ)
P.6 コンサート・発表会 (絵=アバターさんたち と メッセージ)
P.7 キャンパスライフ (絵=アバターさんたち と メッセージ)
P.8 イベント (絵=アバターさんたち と メッセージ)
P.9 ブラスアカデミーのひみつ (いわゆるQA形式の説明)
P.10 ひみつ(続き)、今後の新歓行事
裏表紙 ブラスアカデミーロゴ、連絡先
ワープロ出力と手書きをうまく織り交ぜながら、全編寺沢さんの制作で構成されています。
一般的なサークル紹介パンフの質や量がどのようなものか記憶も記録もありませんが、手書きのアナログな感じやある意味拙さが受験戦争を勝ち抜いてきた新入生の癒しになったのではないか、と思ってしまいます。
そしてこのパンフ、作成過程(原図/原画っぽいもの)も残されています。
「ファジー」という言葉が流行ったのは1990年台初頭ですが (「ファジィ」1990年 新語・流行語大賞 新語部門 金賞) 、2024年の今、生成AIの対極にあるこの「ファジーな」デザインを目にした若者たちが何を感じるのか、興味が尽きません。
新歓演奏会(1995.4.18)
新入生歓迎演奏会(&新入生歓迎コンパ)は、
1995年4月18日 18:00~ 駒場生協食堂1階
で開催されました。新歓コンパって2024年の現代に存在しているのかどうかわかりませんが、記事にするとコンプラ的にまずい気がするので新歓演奏会のことだけ書きます。
新歓演奏会のプログラムは残念ながら残っていないのですが、平成7年(1995年)2月16日付の「お知らせ ~新歓演奏会の選曲について~」という手書きの資料(*11)が残っています。ちなみにこの資料を作成したのはわたくし、つちだです。
この年(1995年)の演奏会企画~裏方仕事については、「指揮」(今でいう副指揮)の立場で、かなり多くの部分を私が主導させていただきました。私自身の数少ない得意分野でもあります。
先に書いた資料はまだ選曲の途中段階のもので、「A案」「B案」「C案」を今で言うプロ/コン(Pros/Cons)付きで並べています。最終的にA案になるのですが、これが1995年の新歓演奏会のプログラムです。
マーチ・エイプリル・メイは先の記事でも書きましたが1993年度の吹奏楽コンクール課題曲で、ブラスアカデミーを立ち上げて最初にみんなで音を出した曲です。交響的舞曲は1988年の吹奏楽コンクール課題曲です。
演奏会の最初にマーチ・エイプリル・メイをもってきていますが、先の記事でも書きましたが自分自身30年経っても記憶に残る「冒頭のサウンド」で勝負がポイントです。聴衆のハートを一気に掴む作戦ですね。
2曲目の交響的舞曲ですが、この曲は木管のテクニックが要求される曲。「木管聴いて!」のメッセージと、課題曲を2曲続けることで近い将来「吹連加盟→コンクール出場」を本気で考えてます、というメッセージを同時に発信しています。
3曲目のトランペット吹きの休日ですが、当時、ブラスアカデミーには自慢のトランぺッターが3本揃っておりました。「この先輩たちと一緒に吹きたい、音楽がしたい」という強い憧れを抱いてもらう作戦。「いいトランペットがいるバンドで吹きたい」というのは、トランぺッターのみならずすべての吹奏楽部員/団員共通の想いだと思うのです(トランペットで苦労している楽団は今も昔も変わらず世の中に溢れかえっていますから)。この曲が裏のメイン曲です。
最後はリードの春の猟犬。この時代の吹奏楽のド定番、春らしい雰囲気、美しく心地よいメロディー、集まってくれた新入生に吹奏楽の魅力をアピールしつつ、ブラスアカデミーのファンになってもらいたい、という想いをのせました。
アンコールは当時流行りに流行っていた小室哲哉プロデュースのポップス。
ちなみに、新勧活動中のデモ演奏もつちだがプロデュースしています。当時まだまだ楽譜が少ない時代でしたが、金管5重奏/金管6重奏を編成して、「ハトと少年」(天空の城ラピュタ)や、当時金管6重奏といえばそれしかなかった(笑)「ピザパーティ」を演奏した記憶があります。
1995年の五月祭演奏会
新歓合宿を5月21(土)22(日)の2日間でおこない(場所は千葉県白子町の憲修館)、翌27(土)にブラスアカデミー初となる五月祭演奏会のステージに立っています。
新入団員のデビュー戦となった五月祭演奏会。新歓演奏会から1か月という期間にも関わらず、春の猟犬以外はすべて入れ替えという非常にアグレッシブな選曲です。が、新勧活動でかなりバタバタしていたのか、選曲過程の資料も残っておらず、この演奏会についてはつちだの記憶もとても薄いです。
残念ながら指揮の分担の記録も記憶もありません。
「金管アンサンブルを入れたい」と言って入れさせてもらったのと、オーメンズオブラブはチャイムの代わりをキーボードで弾いた(自分が)のだけは覚えています。
ちなみに、スプリング・マーチはこの年の吹奏楽コンクール課題曲です。
新入団員は経験者はもちろんアンサンブルを除き全乗りで、初心者はさすがに見学、だったと記憶しています。
アンコールの2曲は、寺沢さんがパート譜までデジタルアーカイブしてくれていたおかげで掲載することができました。シアターミュージックの間奏曲は "ENTR'ACTE" のタイトルだけ書いてあって、何の間奏曲か調べるのに6分もかかりましたよ。
1995年の駒場祭演奏会
わずか12日後に第1回定期演奏会を控えているにも関わらず、祝典のための音楽以外は入れ替えという、これまた超アグレッシブなプログラムです。
プログラムに指揮者割りは載っていない、編曲者(もしくは出版社)情報も載っていないで正直記録も記憶もあいまいなのですが、カンタベリーコラールは私が指揮をしています。後日、佐々木聡子さん(1期/Eu, 1年)から「カンタベリーコラールのつっちー先輩の指揮が恐怖だった」と言われたのが今でも記憶に残っておりまして。私、当時から音程マニアだったんですね。ユーフォのパー練も音程どりばっかりだったと思います。音程の悪いBessonのユーフォでカンタベリーコラール(の下パート、基本3度音が多い)を吹くのはかなり難易度高めで、当時厳しく指導差し上げてほんとうにご苦労おかけしました。
第1回定期演奏会
第1回定期演奏会については、私の手元にビデオ(VHS)が残っておりまして、デジタルアーカイブしてyoutubeで限定公開しています。ご覧になりたい方はURLをお教えしますのでつちだまで連絡お願いします。
相変わらずパンフに指揮者割りと編曲者/出版社情報が載っていなくって苦労はしましたが、ビデオが残っているので指揮者割りは判明。
第2部の前半2曲が杉原さん、後半2曲が私、そして残りが廿日岩さんです。
そして吹いた曲の記憶はちゃんとあるのに、振った曲の記憶がありません。映像も残っているのに。
「ローマの松」は私が推しました。内面的な(不純な)動機といたしましては、前年の春に「シバの女王ベルキス」を原調で全曲吹いてるんですね(出身高校の定期演奏会に乗せてもらった)。その2年前には、高校で「ローマの祭り」を原調で全曲吹いてるんですね。当時レスピーギ大好きだったので「ローマの松もやっておきたい」。
「編成が大きくなったので管弦楽曲アレンジのほうが効果的」「パーカッションが薄いのでオリジナルの大曲は難しい」「トランペットのソロとかハマるでしょ」「バンダやる金管もたくさんいるし」的な理由を並べたら採用してもらえました。
アンコールのメヌエットもつちだのチョイスなのですが、ローマの松でピアノが入ったので「ピアノを活かせる曲で(ハープの代奏をしていただきました)」「上手な木管のソロを聴かせられて」でチョイスしています。フルートソロが立山絵美さん(2期/1年)、オーボエソロが小澤耕平さん(2期/1年)、テナーサックスソロが富田賢吾さん(2期/1年)。富田さんにはリハで「ちゃんと吹け!」って言って後ろからどついたりしましたっけ。若かったですね、わたし。
全体的に難易度高めな選曲で、駒場祭からも間が短く、初心者もそこそこいる中でみんなすごく頑張ったと記憶しています。そんなこんなで楽団が立ち上がってから第1回定期演奏会に至るまでの1年3か月を、みんなで全力で走り切りました。
いったん締めます
「ブラスアカデミーの第29回定期演奏会までに書き切ろう」と思っていたのですが、書ききれませんでした。いったんここまでにして、「部室と駒場寮のもろもろ」とか「吹連加盟検討のごちゃごちゃ」とか「もう少し俗っぽい話」とか、気が向いたらまた書き足そうと思います。
「こういう話を聞きたい」というのがあれば、記憶と記録のある限り掘り起こしますのでリクエストいただけると嬉しいです。直接つながっていない方はfacebookでつながっていただくか、instagramのDMを使っていただければ。
出典
(*6)(*7)(*8)(*9)(*10)(*11)(*12)(*13)(*14)(*15)(*16)(*17)
寺沢憲吾さん(1期, Cla)所蔵のデジタルアーカイブより
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