神だけしか与えることのできない「恩寵の愛」

 人間が愛されたいと思う意識は何処からくるのか?自分が愛されたい、なんて、赤ん坊の頃から当たり前だ。そんなこと、自明だ、と思っていないだろうか?
 
 世の中でいろんな人達と付き合っていると、目に見えない永遠について瞑想したいと感じない人達が沢山いる。彼ら・彼女らは、日々の退屈を、様々な気晴らしを見つけて埋めて、それで自分が満たされていると感じている人達もいる。幸せや感動に貪欲ではないのだ。「目の前にある出来る事で満足しよう。」

 私の関わる子ども達には、そのような大人になって欲しくない。

 目の前にある気晴らしが悪いというのではない。寧ろ、それらの気晴らしが備えられたのは、偶然ではなく、神がご自身の愛の意図を伝えることが目的だと分かると、私は気晴らしその物より、その友である神との愛の交流(聖書の御ことばと祈り)を好む。
 
 自分の日々の疲れを一時的にでも癒してくれる気晴らしは、私の”今”を本当に満足させているのだろうか? 
 あるいは、そのように日々の癒しを昼夜休まずに配慮して下さる神が人格的に私の心に交わって、(聖書の言葉と文脈を通して)私と”愛”を語り合うために、それらの癒しを意図的に下さるのだろうか?

 神は、神の定義によって、全知全能で、人間のどの天才よりも、また、人知を超えてゆく人工知能よりも、全知全能なのだ。
 また、神は、完全な善であり、完全な愛である。この世が、悪と利己主義に堕落し切って、全ての人々が自己正当化にやっきになっているのに、「自分は、そんなに悪い人ではない」と思い込もうとしている。
 この自己正当化や利己主義は、人類共通の性質で、聖書の最初の1章~3章に描かれている。

 神は、人類に「放蕩息子の旅」に出して、神ご自身と人との関係を学ばせることになさった。

 何故なら、神が人間を創造されたのは、神が創造された(創造し続けておられる)「幸せ」、「感動」、「希望」、「尊厳」、「永遠」、「希望」、「歓び」、「意味」、、、、これらの特権は元々神に完全な形ではたらいている。神は、人間をご自身の「似姿」に創られたので、これらの特権を人間に与えて下さる。また、これらの特権を人が貪欲に求めて享受して、その歓びで、神を賛美するためである。
 こえらの歓びの特権は、天の人格を持った神との親しい対話によって、享受する。

 「神との対話」? 聖書に馴染みのない日本人の多くの方々は、「神との対話」等という言葉を聞くと、何か疑わしい神秘主義や占いや非科学的狂信のような印象を受けるかもしれない。

 しかし、神が聖書の言葉と聖書全体の文脈によって私達の心の奥底に語りかけてくださる時、私達の理性が最も良く備えられる。

 神だけに与える事が出来ない恩寵の愛。人が自分の心の深みで、この神との対話を楽しめるかどうか? これは、その人の一生の幸福、また、その人の人間としての尊厳を学べるかどうか、という致命的な意味を持っている。

まず、聖書について。キリスト教の正典は、旧約聖書と新約聖書から成り、旧約聖書で預言されていた多岐に渡ることをキリストが驚くべき方法で成就してゆく様子を新約聖書が鮮やかに伝えてくれる。

このような歴史の作者が、全知全能で愛である神。

その全能の神が、被造物である人間にやさしく語りかける言葉は、この世のどの書物より深淵で人知をはるかに超えた知恵を愛に満ちている。

神を馬鹿にする人達は、そのような愚かな馬鹿になってしまう。

私が関わる子ども達には、そのような先を見通すビジョンを持たない人にはなって欲しくない。

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