5つの方法で神の愛を語る
D.A.カーソンは、聖書は5つの異なる方法で神の愛を語っていると指摘しています。(D.A. Carson著『On Distorting the Love of God』より)
第一は、御父の御子に対する特別な愛(ヨハネ3:35; 5:20)と、御子の御父に対する愛(ヨハネ14:31)です。
第二は、被造物全体に対する神の摂理的な愛です。これについて「愛」という言葉が使われることは滅多にないのですが、この世界が、愛に満ち溢れた創造主の、愛の産物であることは間違いありません。(創世記1:4, 10, 12, 18, 21, 25節で神が造られたものに対し「良し」と宣言されている。)
第三は、堕落した世界に対する神の救いの愛(ヨハネ3:16)。
第四に、選民に対する神の特別な、有効な、選びの愛。選民は国としてのイスラエルのことも、教会のことも、特定の個人のこともあります(特に申命記7:7-8; 10:14-15; エペソ5:25; Iヨハネ3:1を参照)。
最後に、聖書はよく、御民に対する神の暫定的で条件付きの愛についても語っています。神への従順と神に対する恐れが、神の愛を経験する条件として描かれている。これは、私たちを神との関係に導きいれる救いの愛のことを言っているのではなく、むしろ、私たちが神の愛を感じ、楽しむことができるのは、従順と恐れにかかっていることを意味しています(ユダ21; ヨハネ15:9-10; 詩篇103:9-18)。
恵みとしての愛
私たちがここで注目するのは第四の神の愛、すなわち、神の愛の対象である、神から選ばれた人たちに示される神の愛です。神によって創造された全て被造物が全く同じように同じ度合いで神の愛を受けて経験するわけではありません。聖書からも経験からも、私たちは「一般恩寵(共通恩恵)」のうちに表される神の愛と、「特別恩寵」のうちに表される神の愛とを区別せざるを得ないのです。
「一般恩寵(共通恩恵)」のうちに表される神の愛とは、創造主なる神が全ての被造物に示す愛であり、神の摂理的な優しさ、神のあわれみ、神の忍耐です。この愛は差別のない普遍的な愛であり、救い以外のすべての物質的・霊的な恩恵を与える愛です。選ばれた人たちも、選ばれていない人たちも同様にこの愛を受け、この愛を経験します(マタイ5:43-48; ルカ6:27-38参照のこと)。
一方、「特別恩寵」のうちに表される神の愛とは、救い主なる神の愛であり、人間の罪の贖いと、人間を再生させる恵み、永遠のいのちを確約する愛です。キリストにおいて永遠のいのちを与える愛であり、選ばれた人たちのみに与えられる特別な愛です。この愛は、選ばれた人たちだけが経験します。
それゆえに、上記第3の”人を救う神の愛”も、上記第4の”恵み”と同様、受けるに値しない人に与えられる愛です。罪人に対する神の愛は、人が罪を犯したしまったことに関わらず、その罪人を救います。神が罪人の私たちでさえをも愛されるからこそ、神の愛の栄光は最も大きく輝くのです。キリストは、「私たちが未だ弱かったころ」(無力だったときに)、「不敬虔な者たちのために死んで」くださったのです(ローマ5:6)。誠に、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかに」されたのです(ローマ5:8)。罪人を救う神の愛の唯一の理由(原因)は、神ご自身にあるということです!
愛とキリストの死
この神の愛こそ、キリストの贖いの”わざ”の源であり、原因です。神は、キリストが御民のために死んだから、御民を愛しているのではありません。神が御民を愛しておられたからこそ、キリストは彼らのために死なれたのです。救い主の死は、それによって私たちのうちに神の愛を勝ちとる何か、神の愛を受けるに値する何かを回復させるものだと考えてはなりません。キリストの犠牲が神の愛を引き出すわけではありません。あたかも、厳格で、頑固で、消極的な神から愛を引き出すには、キリストの苦しみが必要だったかのように。事実はその反対です。神の愛ゆえにキリストは死なれたのであり、キリストの死に、神の愛が最大限に表されたのです。一言で言えば、神の救いの愛は与える愛なのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛され」ました(ヨハネ3:16a)。またパウロが「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」と書いている通りです(ガラテヤ2:20b; エペソ5:1-2, 25; Iヨハネ4:9-10も参照のこと)。
主権者としての愛
『神がまだ罪人の私たちを愛されるからこそ、神の愛の栄光は最も大きく輝くのです。』
神の救いの愛は主権的でもああります。ジョン・マレーは次のように説明しています。
まことに神は愛である。愛は偶発的なものではない。神が「今は愛であろう」とか、「今は愛であることはやめよう」などと選ばれるものではない。神は愛なのであり、それは必然的で、本質的な、永遠の愛なのである。神が霊であり、光であるように、神は愛なのである。しかし、神は必然的に永遠に愛であるけれども、全くもって好ましくなく、地獄に値する者に対して、彼らを贖い、子とする愛を注ぐことは、決して本質的に必要なことではなかった。この認識こそ、選びの愛の本質に属している。神は、全く自由で主権的なみこころにより、ご自身の測り知れない善良さから湧き出る「良い喜び」のために、御民を神の相続人、キリストとの共同相続人として選ばれたのだ。選びの理由はすべて神ご自身にあり、「わたしはある」の神特有の決定から生じたものである(『Redemption: Accomplished and Applied』10ページ参照のこと)。
したがって、愛が主権的であるということは、愛が区別的であるということです。救いの愛という定義上、この愛は実際に救われた者(すなわち選民)にのみ与えられ、経験されるものなのです。もちろん神が選民でない人々も愛しておられることは確かですが、それは贖いの愛ではないのです。もし神が贖いの愛で愛されたなら、彼らも確実に救われるはずだからです。神は彼らを愛しておられますが、救いの愛で、ではないのです。そうでなければ彼らも絶対に救われるわけですから。つまり、神の永遠の選びの愛は普遍的ではなく、特別の愛だということです。
子とする愛
神の愛こそ、私たちが子とされる理由です。神は「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:5b; Iヨハネ3:1も参照のこと)。この神の愛は確かに「大きな愛」です。「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」(エペソ2:4b)、神は私たちをキリストとともに生かしてくださったのです。これは大きな愛です。なぜならこの愛は尽きることがなく、その深さは計り知れず、その目的は人の罪によって決して阻まれることがないからです(エペソ2:4-5)。
永遠の愛
神の救いの愛は永遠です。神は「世界の基が据えられる前から」(エペソ1:4-5)、私たちの上に救いの愛を注がれ、あらかじめ子とすることを定められました(IIテサロニケ2:13参照のこと)。チャールズ・スポルジョンはこの永遠の愛を次のように表現しています。
『神の愛ゆえにキリストは死なれたのであり、キリストの死に、神の愛が最大限に表されたのです。一言で言えば、神の救いの愛は与える愛なのです。』
はじめのはじめ。生まれる前の森がどんぐりの中にあるように、この大宇宙が、まだ神の頭の中にあったとき。こだまが孤独を呼び覚ますずっと前、山々が生まれる前、空に光が放たれるずっと前に、神は選びの民を愛しておられた。まだ被造物が何も存在しないとき。天空が御使いの羽であおられる前。空間もまだ存在していないとき。神以外は何も存在しなかったとき。そんなときにさえ、唯一存在しておられた神の中では、あの深い静寂と深遠の中で、神の心は選ばれた民への愛で熱くなっていたのだ。当時から、彼らの名前は神の心に書き記され、彼らの存在は神の宝だった。イエスは世界の基が据えられる前から御民を愛しておられた。永遠から!そして恵みによってイエスが私を召し出されたとき、主は私にこう言われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。 それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」(『Autobiography: Volume 1』167ページ参照のこと)。
この愛は、その着想において永遠であるだけでなく、その目的において取り消すことのできないものです。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」(ローマ8:35)。だれにもできないのです!使徒パウロがこのような確信に満ちた希望を語ることができるのは、神がキリストにおいて私たちを愛してくださったからにほかなりません。私たちがまだ神の敵であったときに、神は私たちを愛してくださり、御子を遣わしてその愛を示してくださいました。だからこそ、今や神の友となった私たちに対する神の愛は揺るぎないのです(ローマ5:8-11参照のこと)。J.I.パッカーは、この神の愛の永遠性と確実性をうまくまとめています。
永遠から、私の造り主は私の罪を予見し、あらかじめ私を愛し、カルバリの犠牲を払っても私を救おうと決心しておられたと知ること。御子が私の救い主となるように永遠から任命され、愛をもって私のために人となり、私のために死に、今生きて私のためにとりなし、いつの日か私を天の故郷へ迎えるために主ご自身が来てくださると知ること。「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった」主、「来て、平和を伝えられた」主が、御霊によって私を霊的な死から、いのちを与える主ご自身との結合に生かしてくださり、決して私を離さないと約束しておられると知ること。これぞ、圧倒的な感謝と喜びをもたらす知識である(『The Love of God: Universal and Particular,” in Celebrating the Saving Work of God: The Collected Shorter Writings of J. I. Packer』第一巻、158-59ページ参照のこと)。
懲らしめる愛
私たちを聖くする天の父の懲らしめは、神が私たちに与えてくださる永遠のいのちに劣らない、神の愛の賜物です。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」(へブル12:5b-6)。このことばを書き送られたへブル人のクリスチャンは、苦しみのないことが神の特別な好意のしるしであり、それゆえ、苦しみや圧制は神が立腹されているしるしだと誤解していました。しかしながら、苦難は神の怒りや拒絶の証拠ではなく、むしろ、父なる神の愛の証拠なのです。懲らしめについてフィリップ・ヒューズは次のように書いています。「懲らしめは、厳しく冷酷な父親のしるしではなく、息子の幸せを案じる、父親の深い愛情のしるしである」(『Commentary on the Epistle to the Hebrews』528ページ参照のこと)。
神の愛とクリスチャン人生
『神は、波のように次々と押し寄せる父なる神の愛情に、私たちがどっぷりと浸かることを願っておられます。』
御民に対する神の永遠かつ揺るぎない愛は、単に遠く離れていた罪人との和解を確約するだけでなく、もっと多くのことを保証します。私たちに対する神の愛は、私たちの互いに対する愛を可能にします。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(Iヨハネ4:12; Iヨハネ2:5も参照のこと)。
最後に、御民に対する神の愛は、単に宣べ伝えるべき教理であるだけでなく、神が私たちに体験してほしいと願っておられる、生き生きとした、神の心の愛です。だからこそ、パウロは「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように」と祈っています(IIテサロニケ3:5)。父なる神に愛されていることを私たちが体験的に楽しむためには、御父ご自身が、その体験を阻害するあらゆる障壁を取り除いてくださらなければいけません。
私たちに対する神の愛は、「私たちに与えられた聖霊によって……私たちの心に注がれて」います(ローマ5:5)。パウロの熱烈な表現は、神の賜物の溢れんばかりの豊かさを示しています。チャールズ・ホッジが(フィリパイの言葉を引用して)神の愛は「露のしずくのように私たちに降り注ぐのではなく、川のように私たちの魂全体に流れ込み、神の臨在と祝福に気づかせてくれるものである」と言った通りです(『Commentary on the Epistle to the Romans』210ページ参照のこと)。神は、波のように次々と押し寄せる父なる神の愛情に、私たちがどっぷりと浸かることを願っておられます。パウロが「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と祈ることができるのも、まさにこのためなのです(エペソ3:18-19a)。
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