覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(5)
著者 二宮俊博
その他の儒者・志士・詩人―神保蘭室・亀井南冥・広瀬蒙斎/高山彦九郎/梁川星巌
神保蘭室(寛保3年[1743]~文政9年[1826])
名は行簡、字は子廉。通称容助。蘭室と号す。米沢の人。江戸で細井平洲(名は徳民、字は世馨。享保13年[1728]~享和元年[1801])の嚶鳴館に学んだ。藩主上杉治憲(鷹山。寛延4年[1751]~文政5年[1822])が平洲を米沢に招くと、その供をして帰郷。安永5年(1776)藩校興譲館が設立されるとともにその提学となった。東陽より14歳上。
東陽に五排「米沢提学神保子廉に贈る」詩(『詩鈔』巻三)がある。詩の配列からすれば「奥田三角翁八秩の寿詞」の直前にあることからして、天明2年(1782)以前の作。
大邦隆德望、賢績列侯魁 大邦 徳望隆く、賢績 列侯の魁
政自無為化、官皆有用才 政は自ら無為の化、官は皆有用の才
民人治道洽、文物學宮開 民人 治道洽く、文物 学宮開く
死馬猶堪買、真龍直欲來 死馬すら猶ほ買ふに堪ふ、真龍直ちに来
らんと欲す
雅期揮月筆、公燕醉花杯 雅期 月筆を揮ひ、公燕 花杯に酔はん
肎許觀花客、從君游一囘 肯へて許さん観花の客、君に従ひて一回
遊ぶを
◯大邦 大藩。ここでは米沢藩十五万石のこと。◯賢績 すぐれた治績。◯無為化 盛唐・王維の五排「聖製玄元皇帝像を慶するの作に和し奉る」詩に「無為の化を報ずるを願ひ、斉心自然を学ぶ」と。◯学宮 学校。興譲館をいう。◯死馬 戦国時代、郭隗が燕の昭王に、死んだ名馬の骨でも買い取れば、優れた名馬が集まると説いた故事(『戦国策』燕策)。◯真龍 ほんものの龍。真にすぐれた人材。六朝梁・任昉「天監三年秀才に策する文三首」其二(『文選』巻三十六)に「朕心を駿骨に傾く、真龍を懼るるに非ず」と。◯雅期 風趣に富む好時期。元・劉因「西山の雅会」詩(『静修先生文集』巻十)に「山色旧無く今日濃かなり、雅期新たに得て君と同じうす」と。◯揮月筆 筆を揮う。筆は兔の毛で作られることが多く、兔と月とは縁語である。中唐の韓愈・李正封「晚秋郾城夜会の聯句」に「文を摛べて月毫を揮ひ、剣を講じて霜鍔を淬く」と。◯公燕 君公が設けた宴会。〈燕〉は、宴と音通。
結びの二句は、「貴殿と一度花見を一緒にさせていただけませんか」の意であろう。
なお、『文集』巻八に鷹山の藩政改革に関連する逸話を記した「米沢の村媼布を献ぜし事を記す」「米沢の倹政を記す」という二篇がある。前者に「余、米沢の人に見ゆるに、其の美譚を説くも殫く紀す可からず、此れ特だ其の一端耳」と述べているが、この米沢は、おそらく蘭室であろう。
亀井南冥(寛保3年[1743]~文化11年[1814])
名は魯、字は道載。南冥はその号。その父は筑前早良郡姪浜の医。詩文を徂徠学派の黄檗僧大潮元皓(延宝4年[1678]~明和5年[1768])に学び、21歳のとき大坂に出て永富独嘯庵(享保17年[1732]~明和3年[1766])に就いて古医方を学んだ。福岡黒田藩に仕え、藩校甘棠館の祭酒(館長)となるも、朱子学派との軋轢があり、罷免。以後蟄居の身となり、自宅の火災により焼死。東陽より14歳上。
寛政4、5年ごろの作とおぼしき七律に「亀井道載に寄す」詩(『詩鈔』巻四)がある。
經業修來老更精 経業修め来りて老いて更に精なり
優游玩世任浮生 優游して世を玩して浮生に任す
文章莫道雕蟲技 文章道ふ莫かれ雕虫の技と
才調堪傳繡虎名 才調伝ふるに堪ふ繡虎の名
絶代佳人遲暮恨 絶代の佳人 遅暮の恨み
各天明月索居情 各天の明月 索居の情
神交空切相思夢 神交空しく切なり相思の夢
千里無由命駕行 千里 駕を命じて行くに由無し
◯経業 経書の学業。◯老更精 北宋・蘇轍の七絶「医僧鍳清に贈る二絶」其一(『欒城集』巻十三)に「肘後の医方 老いて更に精なり」と。◯優游 ゆったりと遊びたのしむ。前掲、「石川太一が致仕して郷に還る」詩の語釈参照。◯玩世 世間の事をはすにみる。『漢書』東方朔伝賛に「隠に依って世を玩び、時に詭ひて逢はず」と。◯任浮生 定めなき人生に身を任せる。杜甫の五律「宅に入る三首」其三に「只だ応に児子と与に、飄転して浮生に任すべし」と。〈浮生〉は、定めなき世。語は『荘子』刻意篇の「其の生くるや浮ぶが若く、其の死するや休むが若し」に本づく。◯雕虫技 雕虫は虫を彫刻する。前漢・揚雄『法言』吾子篇に「或ひと問ふらく、吾子は少くして賦を好むやと。曰く、然り。童子のとき彫虫篆刻す。俄にして曰く、壮夫は為さざるなり」と。文章表現を卑しめていう。◯才調 才気。特に文才。◯繡虎名 詩人としての名声。『世説新語』賞誉篇に「曹子建七歳にして章を成す、世目して繡虎と為す」と。◯遅暮 晚年を喩える。戦国楚・屈原「離騷」(『楚辞』巻一、『文選』巻三十二)に「草木の零落するを惟ひ、美人の遅暮ならんことを恐る」と。◯索居 学友から遠く離れていること。『礼記』檀弓上に「子夏曰く、吾れ離群して索居すること、亦た已に久し矣」と。◯神交 夢の中での交流。魂の交感。六朝梁・沈約「謝宣城詩に和す」(『文選』巻三十)に「神交はりて夢寐に疲れ、路遠くして思存を隔つ」と。◯命駕 車馬を出すよう言いつける。でかける。『世説新語』簡傲篇に「嵆康と呂安と善し。一たび相思ふ毎に、千里駕を命ず」と。『書言故事』巻三、朋友類にも見える。
「貴殿は経学を修め老いてますます精しくなっておられる。詩人としてもすぐれていらっしゃるのだから文学はつまらぬ小技だとおっしゃいますな。是非ともおめにかかりたく存じますが、行くすべがございません」。
詩人としての南冥の力量は、つとに宝暦14年(1764)の朝鮮通信使から「筑前州の亀井魯は、海中の奇才なり」と高く評価されており、尾張の岡田新川と合わせて「一双の荊壁」だと認められていた(岡田新川の宝暦14年刊『表海英華』)。一方、経学面では寛政5年に『論語語由』を完成させており(開版は文化3年)、起句はそのことが念頭にあったか。東陽は南冥と実際に面晤する機会をもたなかったように思われるものの、その動静については少しく知るところがあり、それゆえかかる詩を寄せたのであろう。ちなみに、南冥の弟子にあたる久留米藩儒の梯箕嶺(明和5年[1766]~文政2年[1819])とは江戸出府のおりに詩を贈っており、その内容から在京中に交流があったらしいことについては、「文化十一・十二年の江戸」で述べたとおりである。
※亀井南冥については、古くは高野江基太郎『儒侠亀井南冥』(私家版、大正2年)があり、早舩正夫『儒学者 亀井南冥・ここが偉かった』(花乱社、平成25年)、河村敬一『亀井南冥小伝』(花乱社、平成25年)がある。
その詩は『亀井南冥・昭陽全集第八巻【上】』(葦書房、昭和55年)に「亀井南冥詩文集」として稿本の影印が林田愼之助氏の解説を附して収録されているほか、徳田武『江戸漢詩選1 文人』(岩波書店)、竹村則行「詩人南冥」(『江河万里流る―甦る孔子と亀陽文庫』所収。亀陽文庫・能古博物館、平成6年)も参照。
広瀬蒙斎(明和5年[1768]~文政12年[1829])
名は政典、字は以寧。通称は臺八。蒙斎はその号。陸奥白河の人。藩主松平定信の命により寛政3年(1791)江戸に出て昌平黌に入り、柴野栗山(名は邦彦、字は彦輔。享保19年[1734]~文化4年[1807])に学んだ。後に西国を遊歴し、菅茶山(名は晋師、字は礼卿。寛延元年[1748]~文政10年[1827])・頼春水(名は惟寛、字は千秋。延享3年[1746]~文化13年[1816])らと相知る。文政6年、藩主松平定永の桑名移封に従った。桑名と江戸とを行き来し、後に江戸に転居した。東陽より11歳下。
七絶に「広瀬以寧の白河に還るを送る」(『詩鈔』巻九)がある。この詩には「以寧京師浪華に西遊し、路を迂して我が藩に過ぎる。留まること数日、経る所凡そ十三州」という自注が附されている。
詩酒交驩到處留 詩酒交驩 到る処留まる
乘春游歷十三州 春に乗じて游歴す十三州
歸心趁得長風去 帰心 長風を趁ひ得て去る
直入關城未是秋 直ちに関城に入るも未だ是れ秋ならず
◯詩酒交驩 詩を作り酒を酌み交わして楽しむ。〈驩〉は、歓と同じ。◯帰心 西晋・張翰は秋風の立つのを感じて故郷の菰菜・蓴羹(ジュンサイの吸い物)・鱸膾(スズキのなます)を想い出し、やもたてもたまらず官職を投げ出して帰郷した(『晋書』張翰伝)。◯長風 遠くから吹く風。◯関城 白河を指す。なお、この詩は『後拾遺和歌集』『古今著聞集』に載せる能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風の吹く白河の関」を意識する。
蒙斎は、東陽の幼なじみで江戸に遊学し後に桑名藩儒となった平井澹所(宝暦12年[1762]~文政3年[1820])とは昌平黌の縁で親しく交わり、松崎慊堂の「澹所先生平井君墓表」にも知友の一人として名を挙げている。東陽が出府した文化11・12年には蒙斎も江戸におり、当時やはり福山から江戸に出ていた菅茶山とは旧知の間柄で、茶山の江戸出府中の作を収めた『黄葉夕陽村舎詩後編』巻五・六にその名は見えぬものの、富士川英郎『菅茶山』下(福武書店、平成2年)に引く『東遊暦』から両者はかなり頻繁に交際していた様子が窺えるが、東陽とは顔を合わせた形跡がない。
※柴野栗山の養子、碧海(名は允升。安永2年[1773]~文政12年[1829])に「桑名教授蒙斎先生広瀬君墓誌」(『事実文編』巻56)がある。慊堂の「墓表」は「文化十一年・十二年の江戸」の【資料編③】に挙げておいた。
高山彦九郎(延享4年[1747]~寛政5年[1793])
名は正之、字は仲縄、号は赤城。彦九郎はその通称。上野新田郡細谷村の人。郷士の子で、18歳のとき京に出奔、岡白駒らに師事。いったん帰郷後、江戸に出て24歳にして細井平洲の門を叩いた。朝廷の衰微を憂い皇室崇敬の念を抱いて江戸・京都を始め各地を遊歴し幅広い人脈を築いた。その様子を頼春水が天明3年(1783)作の七律「岡田忠卿の韻を用いて高山彦九郎に似す」詩(『春水遺稿』巻三)において「幾処の雲林にか傑士を求め、連年華洛に皇居を拝す」と詠じている。やがて、その行動は幕府に目をつけられ、寛政5年久留米の友人宅で自刃。東陽より10歳上。
題下に「上毛新田邑の人。豪爽にして遊を好み、奇士を以て称せらる。筑の柳川に客死せり」と注した五絶「高山彦九郎を悼む」(『詩鈔』巻六)がある。〈豪爽〉は、強くさっぱりとした気性。〈奇士〉は、奇傑の士。衆にすぐれた人物の謂で、客死した地を筑後柳川とするのは誤伝である。
奇節天下士、慷慨眼如電 奇節天下の士、慷慨 眼は電の如し
誰將金管筆、為著英雄傳 誰か金管の筆を将て、為に英雄の伝を
著さん
◯奇節 奇特な節操。◯天下士 才徳非凡の士。『史記』魯仲連鄒陽列伝に「始め先生を以て庸人と為すも、吾れ乃ち今日、先生は天下の士為るを知るなり」と。◯慷慨 いきどおりなげく。激情的なこと。『世説新語』賞誉篇に「士衡(陸機)は長七尺餘にして、声は鍾声を作し、言は慷慨多し」と。◯眼如電 『世説新語』容止篇に「裴令公(裴楷)、王安豊(王戎)を目すらく、眼は爛爛として巌下の電の如しと」と。ちなみに、『薈瓉録』巻下に「戎眼爛爛如巌下電トハ、其風神精悍ニシテ、目玉ヲキラツキテ物スゴキ勢ナリ。目光如電、常語ナリ。特ニ巌下ト云ヘルガ妙ナリ」云々と。◯金管筆 軸に彫金した筆。六朝梁・元帝(蕭繹)が湘東王であったとき忠臣義士の伝を記するのにこの筆を用いたという。南宋・謝維新撰『古今合璧事類備要』前集卷四十六、文房門に「筆品」の語を挙げ「梁の元帝、湘東王為りし時、常に忠臣義士、文章の美なる者を記録するに、筆に三品有り。忠孝全き者には金管を用て之を書し、徳行精粋なる者には銀管を用て書し、文章贍麗なる者には斑竹管を用て之を書す」と。
東陽が高山彦九郎と面識があったかどうかは不明ながら、柴野栗山が見た「身長八尺、高髻梁に挿み、面は紅色の如し」(『栗山文集』巻二、「高山生を送る序」)とか菅茶山の記す「其人鼻高く目深く口ひろくたけたかし総髪なり」(『筆のすさび』巻三、高山彦九郎の伝)という魁偉な容貌を含めて、この人の風聞は耳にしていたのであろう。先に挙げた詩や『在津記事』などに見えるがごとく父春水とのゆかりが深かったためか、頼山陽(名は襄、字は子成。安永9年[1780]~天保3年[一1832])に「高山彦九郎伝」(天保12年[1841]刊『山陽遺稿』文集巻三、木崎好尚編『頼山陽全書6文集』所収)があるのは、東陽の願いをかなえたものと言えようか。さらに斎藤拙堂(名は正謙、字は有終。寛政9年[1797]~慶応元年[1865])にも「高山彦九郎招魂墓銘幷びに序」がある。
※高山彦九郎については、萩原進『高山彦九郎』(文進社、昭和19年)、森銑三「高山彦九郎」(『森銑三著作集第九巻人物篇九』、中央公論社、昭和46年)および野間光辰『日本の旅人⑦ 高山彦九郎』(淡交社、昭和49年)参照。なお、萩原進・千々和実共編『高山彦九郎全集』(昭和27年)第二巻に「在京日記」を収めるが、それには東陽の名は見えない。
梁川星巌(寛政元年[1789]~安政5年[1858])
名は卯、孟緯。字は伯兔。号は星巌。美濃安八郡曽根村の人。江戸に出て山本北山に学び、柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山らと交流があった。東陽より32歳下。
七絶に「詩禅道人過り訪ぬ」詩(『詩鈔』巻十)がある。文政元年(1818)ごろの作であろうか。
獨往翛然雲水僧 独往翛然たり雲水の僧
一天風月百年朋 一天の風月 百年の朋
陵空錫杖來何晩 空を凌ぐ錫杖 来たること何ぞ晩き
辜負詩筵昨夜燈 辜負す詩筵昨夜の燈
◯翛然 物事にとらわれないさま。『荘子』大宗師篇に「翛然として往き、翛然としとて来たるのみ矣」と。◯一天風月 同じ空の下にいること。『五灯会元』巻十九、霊隠仏海禅師の条に「万畳雲山聳翠、一天風月良隣」と。◯百年朋 生涯の友人。◯陵空錫杖 僧が遊行することをいう。晋・孫綽「天台山に遊ぶ賦」(『文選』巻十一)に「応真は錫を飛ばして以て虚を躡む」とあり、五臣李周翰の注に「応真は、真道を得る人。錫杖を執りて虚空を行く、故に飛と云ふなり」と。『書言故事』巻四、釈教類に「飛錫」の語を挙げ、「高僧伝に、神僧有り、錫を飛ばし空を凌いでゆく」と。◯辜負 (意向に)そむく。
「君といると百年來の友人のような気がするが、来るのがおそく昨夜の詩会の席に参加できなかったのが残念だ」。
東陽との交流が窺えるのは、この一首だけだが、星巌の場合は東陽の子、拙脩(有功)との関わりが密で、東陽の没後、「津阪有功宅、塩田士鄂に訪ねらる」、「寓懐、五十六字を書す。時に有功宅に寓す」と題する五絶(『星巌丙集』巻四)がある。
※梁川星巌の伝記については、伊藤信『梁川星巌翁・附紅蘭女史』(原刊は大正14年。後に象山社より昭和55年復刻)参照。その集は伊藤信・冨長蝶如・森義一『梁川星巌全集』全五巻(昭和31~3年)に訳注があり、入谷仙介『江戸漢詩人選集第八巻 頼山陽・梁川星巌』(岩波書店、平成2年)および山本和義・福島理子『日本漢詩人選集⑰梁川星巌』(研文出版、平成20年)がある。
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