覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(3)
著者 二宮俊博
京洛の儒者―福井小車・猪飼敬所
「安永・天明期の京都」において、東陽と交流のあった儒者については触れておいたが、ほかにも関わりのあった京都在住の人物をここに補っておく。
福井小車(?~寛政12年[1800])
名は軏、字は小車、通称厳助。号は敬斎。衣笠山人とも号した。京都の人。後に兄の後を受けて幕府の医官となった。その兄は福井楓亭(享保10年[1725]~寛政4年[1792])。名を輗、字を大車といい、兄弟の名と字とは『論語』為政篇の「大車に輗無く、小車に軏無くんば、何を以て之を行はんや」から取る。〈輗〉〈軏〉は、車の大小で名称を異にするが、車の轅と横木とを連結させる金具。東陽より20歳ぐらいは年長。
小車の師承関係について、『近世藩校における学派学統の研究上』や『日本漢学大事典』・『国書人名辞典』には蟹養斎(字は維安。宝永2年[1705]~安永7年[1788])に就いて宋学を修めたというが、詳しいことは不明。頼祺一『近世後期朱子学派の研究』(渓水社、昭和61年) 116 ・117頁に、「小車の学派は正確なところ明らかでないが、口碑によれば古義学派である」とされる。それを裏付けるごとく、中村幸彦「宮崎筠圃と古義堂」(『神田博士還暦記念書誌学論集』所収。昭和32年。後に『中村幸彦著作集』第十一巻)に、伊藤東所(名は善韶。享保15年[1730]~文化元年[1804])のもとで東涯の詩文集『紹述先生詩文集』刊行に協力したことが見える。また小車は岡白駒(字は千里、号は龍洲。元禄5年[1692]~明和4年[1767])について学んでおり、明和七年に洛東吉田山近くの迎称寺に建立された「龍洲先生之墓」の碑陰にその撰になる「龍洲先生墓碣銘」が刻されている。白駒は、古注疏を主とする経学者であるとともに、白話小説に句読字解を施したことで知られた人物。後述の高山彦九郎が京に上った際、その門をたたき、門人の小車とも交友があった。
東陽に七律「福井小車を訪ぬ」詩(『詩鈔』巻四)がある。
春風求友囀黄鸝 春風 友を求めて黄鸝囀る
負郭幽莊隱士棲 負郭の幽荘 隠士棲む
養病烟霞深避跡 病を養ひて烟霞深く跡を避け
追芳桃李自成蹊 芳を追ひて桃李自ら蹊を成す
俗儒迎客修邊幅 俗儒は客を迎ふるに辺幅を修むるも
清德與人無町畦 清徳 人と町畦無し
永日花裀後庭宴 永日 花裀 後庭の宴
新詩相和醉中題 新詩相和し酔中に題す
◯求友 『詩経』小雅「伐木」に「木を伐る丁丁、鳥鳴く嚶嚶。(中略)嚶として其れ鳴く矣、其の友を求むる声」と。◯黄鸝 カラウグイス。ここは日本のウグイス。盛唐・王維の七律「輞川積雨」詩(『三体詩』巻二)に「陰陰として夏木黄鸝囀る」と。◯負郭 ここは、都の郊外。◯幽荘 都塵から離れた別荘。初唐・盧照鄰の五古「初夏日の幽荘」詩に「聞くに高蹤の客有りと、耿介にして幽荘に坐す」と。◯烟靄 もや・かすみにつつまれた山水。◯避跡 身をかくす。◯追芳 花の香を追って。主の人柄に引かれての意を含む。◯桃李自成蹊 『史記』李将軍伝賛に「諺に曰く、桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」と。◯俗儒 学問見識のないつまらぬ儒者。『漢書』元帝紀に「俗儒は時宜に達せず、好んで古を是とし今を非とす」、ここでは、道学者をさしていうのであろう。◯辺幅 布帛の広狭の幅。転じて外見をいう。『後漢書』馬援伝に「(公孫述は)反って辺幅を修飾して、偶人形の如し」と。『書言故事』巻六、徳量類に「不修辺幅」を挙げ「礼を作さざるを辺幅を修めずと曰ふ」と。◯清徳 高潔な人品徳義。◯町畦 分け隔て。もとは田の区画の意。畳韻語。『荘子』人間世篇に「後且つ無町畦を為し、亦た之を無町畦と為す」と見え、中唐・韓愈の五古「南内に朝賀し帰りて同官に呈す」詩に「文才は人に如かず、行ひ又た町畦無し」というのは、野放図で威儀にかけることをいう。◯永日 春のひなが。三国魏・劉楨「公讌詩」(『文選』巻二十)に「永日遊戯を行ひ、歓楽未だ央きず」と。◯花裀 美しい敷物。
小車はざっくばらんな人柄で、東陽は好感を抱いたようだ。「貴殿は病の身を養って郊外に幽棲されていても、あなたを慕って客が訪ねてくる、私もその一人です」。
『日本教育資料五』によれば、小車は天明年間に丹波篠山藩に招聘されたという。『平安人物志』には、明和三年・安永四年・天明二年の各版に名が見え、住まいは等持院門前町。この詩は、その内容からして小車が出仕する以前で、かつ詩の配列からすれば天明4年以降の作であろう。ちなみに、古賀精里(名は樸、字は淳風。寛延3年[1750]~文化14年[1817])が安永5年(1776)頃京師に遊学した当初、この福井小車に従学したという(頼春水『在津紀事』巻下)。なお、小車は篠山藩に聘せられた後、藩主の命を受けて唐・玄宗の御註に基づいた『孝経補義』(天明8年後序)を著したほか、寛政5年(1793)『賈子新書』の校正新刻版を刊行しており、同年、人を介して依頼された豊後国東の儒医三浦梅園(名は晋、字は安貞。享保8年[1723]~寛政元年[1789])の墓碑を撰している(『梅園全集』上巻、名著刊行会、昭和54年)。その一方で寛政4年には明・丘濬の『大学衍義補』を校訂刊行しているから、宋学にも造詣が深かったことが知られる。
ただ宋学を蟹養斎に学んだとしても、その学統につながる人物ではなかったようである。岡崎盧門編の天6年(1786)刊『平安風雅』に五絶一首が採録されており、端文仲のために編まれた『春荘賞韻』(寛政12年刊)にも衣笠山人の名で七絶一首を載せる。東陽の詩からも頭巾の気に満ち風雅を解せぬ崎門の道学者のイメージからは程遠い。
ところで、蟹養斎といえば、東陽の『訳準笑話』(文政元年[1818]自序、文政7年刊)巻上に次のような話柄を載せているので、参考までに挙げておく。
講学家蟹維安、非徂徠学を著す。久米順利、花名團次郎、一派の巨擘為り。故に其の序を丐ひて之に弁せしむ。事を好む者話を為って曰く、維安行くこと有り、其の徒呼びて曰く、蟹公蟹公、厳装して何くに之く。曰く、仇を報じて徂徠の所に向ふ。問ふ其の帯ぶる所は何物ぞ。答へて曰く、日本第一の久米團次郎。
『非徂徠学』は明和2年(1765)の刊(『日本儒林叢書』第三巻所収)。それに宝暦10年(1760)作の序を冠した久米順利(元禄12年[1699]~天明4年[1784]) は、浅見綗斎(承応元年[1652]~正徳元年[1711])・佐藤直方(慶安3年[1650]~享保4年[1719])とともに崎門三傑と称された三宅尚斎(名は重固。寛文2年[1662]~寛保元年[1741])の女婿で、訂斎と号した。
ついでながら、東陽の『薈瓉録』(『日本藝林叢書』第一巻)巻下に「尾張ノ布施維安ガ著セル治邦要書ト云ヘル書ハ道学家ノ腐論モ少カラザレドモ、其中ニ格言モ頗ル多シ」として、「又言ク人間ハナグサミゴトノ無クテハ叶ハズ、故ニ歌舞アリ、孝経ニ移風易俗莫善於楽トハ正シキ事ヲ楽ニ作リタルハ人ノ情其調ニ移リテ心ニシミ入ルナリ。淫乱遊蕩ノ行ヲ絃歌ニノセテ舞カナデバ風俗ノ乱レ壊サデヤマルベキ、痛大息スベキ事ナリ」と述べる箇所がある。この養斎の見方は前稿「文化十一・十二年の江戸」の大田南畝の項で指摘した、当時巷で流行する歌舞音曲に対する東陽のそれと揆を一にし
ている。学派を異にしても一藩の文教をつかさどる儒者の立場として同様の見解を抱いていたのである。なお、『治邦要書』は元文元年(1736)自序の『治邦要旨』三巻のことである。
※「龍洲先生墓碣銘」については、寺田貞次『京都名家墳墓録』に原文を収録。竹治貞夫『阿波漢学史の研究』第三章「那波魯堂」に訓読文を載せる)。
蟹養斎については、尾張藩儒で明倫堂教授となった細野要斎(文化8年[1811]~明治11年[1878])が安政4年(1857)に刊行した『尾張名家誌』が詳しい。それによれば、安藝の人で、幼くして尾張の布施氏に養われ、すでに長じて京に上り、三宅尚斎に学んだ。その高弟五人のうちの一人(他は、多田維則・久米順利・石王当先・井沢剛中)。のちに尾張藩に仕え名古屋に居住したが、故あってこれを辞し、伊勢で没した。名古屋の郷土史家、市橋鐸氏に『尾藩知名人年譜抄㈦』(私家版、昭和56年)所収の略年譜がある。
また大塚観瀾輯・楠本端山増補『日本道学淵源續録』(昭和9年刊)巻四に久米訂斎先生、蟹養斎が立項されており、蟹養斎の項の増補には「俗謡曰、蟹殿蟹殿何處邊御座留。徂徠賀島邊敵打。於腰乃物波何氐御座留。日本一乃久米断二。蓋詆之也」(俗謡に曰く、蟹殿蟹殿何処へござる。徂徠が島へ敵打。お腰の物は何でござる。日本一の久米断二と。蓋し之を詆るなり)とある。
猪飼敬所(宝暦11年[1761]~弘化2年[1845])
名は彦博、字は文卿。敬所はその号。その父は近江坂本の出で京都西陣の糸商。天明3年(1783)、はじめ石門心学の手島堵庵(名は信、字は応元。享保3年[1718]~天明6年[1786])に学び、ついで薩埵雄甫(名は元雌、号は藁川。元文3年[1738]~寛政8年[1796])に就いた。その雄甫を介して巌垣龍渓(名は彦明、字は亮卿。寛保元年[1741]~文化5年[1801])に入門。寛政3年(1791)西陣に開塾。天保2年(1831)津藩に招聘され講学。東陽より4歳下。
薩埵雄甫・巌垣龍渓と、いずれも東陽が在京時代に交流があった人物であり、とりわけ龍渓には詩会によばれ酒席を共にする機会がよくあった。このことは、「安永・天明期の京都」の巌垣龍渓の項でみたとおりである。敬所も龍渓のもとでは詩作に励んでいたらしい。
さて、東陽が敬所に贈った詩は二首ある。その一つは七律で「猪飼文卿に贈る」(『詩鈔』巻四)と題して、次のように詠じられている。
これは天明8年ごろの作であろう。
道隨時運任汚隆 道は時運に随ひ汚隆に任す
結髪優游講学中 結髪して優游す講学の中
耿介全無今世態 耿介にして全く今世の態無く
清眞自有古人風 清真にして自ら古人の風有り
千秋意氣歌相和 千秋 意気 歌相和し
一夜文章話未終 一夜 文章 話ること未だ終らず
冷笑俗儒多➊➋ 冷笑す俗儒多く齷齪
鏖糟陂裡叔孫通 鏖糟陂裡の叔孫通なるを
*➊➋は、齷齪の訛字。陂は鄙の訛字。
◯汚隆 衰退と隆盛。『礼記』檀弓上に「道隆なれば則ち従って隆にし、道汚なれば従って汚にす」と。◯結髪 成人すること。◯優游 ゆったりとあそびたのしむ。畳韻語。前掲、「石川太一が郷に還る」詩の語釈参照。◯耿介 節操を持し世俗におもねらないさま。双声語。戦国楚・宋玉「丸弁」其五(『楚辞』巻八)に「独り耿介にして随はず、願はくは先聖の遺教を慕はん」と。◯清真 すっきりとして純真。『世説新語』賞誉篇に西晋・山濤が阮咸を評して「清真寡欲、万物も移す能はざるなり」と。李白の五古「王右軍詩」に「右軍本と清真、瀟灑にして風塵を出づ」と。◯今世態 今風の(軽薄な)態度。宋・張沢民の七律「梅花二十首」其五(『瀛奎律髓』巻二十、梅花類)に「韻士随はず今世の態、仙姝猶ほ作す古時の粧」と。◯古人風 古人の風格。中唐・白居易の五古「王質夫を哭す」詩(『白氏文集』巻十一)に「憐れむ君に古人の風あり、重ねて君子の儒有るを」と。◯俗儒 道学者を指していう。前に挙げた「福井小車を訪ぬ」詩の語釈参照。◯齷齪 細かなことに拘るさま。こせこせ。畳韻語。六朝宋・鮑照「放歌行」(『文選』巻二十八)に「小人自ら齷齪、安んぞ曠士の懐を知らんや」とあり、その李善注に「漢書に酈食其曰く、其の将齷齪、苛礼を好むなり」と。◯鏖糟鄙裡叔孫通 『書言故事』巻十、拾遺類に「俗に齷齪を鏖糟鄙俚と言ふ」とし、「東坡、程頤に戯れて曰く、鏖糟鄙俚の叔孫通と謂ふ可し」と。東坡の故事は、北宋・孫升『孫公談圃』上に「司馬温公の薨ずる、明堂(天子の廟)の大享(祖先を祀る儀式)に当たる。朝臣は斎を致すを以て奠(葬儀)に及ばず。肆赦(恩赦)畢り、蘇子瞻同輩を率いて以て往く。程頤固く争ひ、論語の〈子 是の日に於いて哭すれば、則ち歌はず〉を引く。子瞻曰く、明堂は乃ち吉礼、歌へば則ち哭さずと謂ふ可からざるなりと。頤又た司馬の諸孤弔を受くるを得ざるを諭す。子瞻戯れて曰く、頤は燠糟鄙俚の叔孫通と謂ふ可しと。聞く者之を笑ふ」と見える。『論語』は、述而篇。〈叔孫通〉は、前漢の儒者。高祖劉邦が天下を取った当初は、功臣と宴を催すと「群臣飲んで功を争ひ、或いは妄りに呼び、剣を抜きて柱を撃つ」ありさまだったが、叔孫通が礼式を定め遵守させた結果、高祖は「吾れ乃ち今日皇帝の貴きを知るなり」として満足したという(『漢書』叔孫通伝)。『蒙求』巻上の標題に「叔孫制礼」がある。ちなみに、清・胡文英の『呉下方言考』に「蘇東坡、程伊川と事を議して合はず。之を譏って曰く、頤は鏖糟鄙俚の叔孫通と謂ふ可し矣と。鏖糟とは、執拗にして人心をして適はしめざるを謂ふなり。呉中、執拗生気を謂ひて鏖糟と曰ふ」と。〈生気〉は腹立ち、怒り。
「貴君はつまらぬ儒者どもが細かい礼式に拘ってうだうだいうのを冷ややかに鼻で笑ってござる」。
東陽が在京中、当地の儒者の多くをあまり評価していなかったことは、「安永・天明期の京都」において指摘したように、西山拙斎(享保20年[1735]~寛政10年[1798])に寄せた七律「備中の西山子雅に寄す」詩(『詩鈔』巻四)の中で「洛儒多くは是れ麒麟楦(こけおどし)、未だ必ずしも遺経をば爾許く修めず」と述べているし、後に挙げるように尾張の恩田仲任に対しても「問ふを休めよ洛儒鞭賈の妝ひ(見掛け倒し)」と書いていることからも窺えるが、敬所についてはおそらく詩会に同席したおり日頃の勉強ぶりやその学問の一端を知って、ともに語るに足る人物だとみなしたのだろう。
もう一首は、「猪飼文卿に似す」(『詩鈔』巻六)と題する六言絶句で文化12年(1815)以降の作とみられる。
綵筆精華擅世 綵筆の精華 世を擅にし
明霜分義横秋 明霜の分義 秋に横はる
博物多多益辨 博物 多多益ます弁ず
願言與子偕遊 願はくは言に子と偕に遊ばん
◯綵筆 詩文をいう。杜甫の「秋興八首」其八に「綵筆昔曾て気象を干す」と。◯明霜分義 〈分義〉は、名分義理。六朝宋・袁「曹子建の楽府白馬篇に倣ふ」(『文選』巻三十一)に「義分は霜よりも明らかに、信行は直なること弦の如し」と。晩唐・薛逢の七律「秋に驚く」詩に「明霜の義分は虚話と成り、阜俗の文章は暗投を惜しむ」と。◯横秋 六朝梁・孔稚圭「北山移文」(『文選』巻四十三、『古文真宝後集』巻五)に「風情日に張り、霜気秋に横はる」と。◯博物 博識。『左氏伝』昭公元年に鄭の子産について「博物の君子なり」と。◯多々益弁 多ければ多いほどよく処置する(『漢書』韓信伝)。『書言故事』巻六、讃嘆類にも挙げ、「多く事を了するを多多益々弁ずと曰ふ」と。◯願言 この表現、古くは『詩経』邶風「二子乗舟」に「願うて言に子を思ふ」とある。〈言〉は、助辞。ただし、鄭箋は我と訓じる。
結句に「ご交遊のほどよろしく」とはいうものの、敬所に言わせれば、実際のところ、東陽とは二三度顔をあわせただけで、深く交友関係を結ぶには至らず、手紙のやりとりもなかったという。後年、敬所が東陽の弟子でもあった川村竹坡(名は尚迪、字は毅甫。寛政9年[1797]~明治8年[1875])に宛てた「津阪氏祠堂制度祭礼儀節考、御示被下候」と始まる手簡(「猪飼敬所先生書柬集巻二」、『日本儒林叢書』第三巻および『日本藝林叢書』第四巻所収)に、
津阪氏、唐流ノ物好浮薄ヲ誡ル事宜ナル哉。此考ニ制セラルゝ事、小藩ノ士大夫ハ辨スル事能ハズ。大藩ニ仕ル人ニハ大幸トイフベシ。東陽翁篤学礼ヲ重ゼラルル事可敬々々。老拙初学之時、東陽ハ先輩、非我倫、両三度面会セシ迄ニ不親、其後ハ互ニ学術之事モ不聞及、往年ヨリ書信ニテモ通候テ、互ニ切磋モ可致ト今更残念ニ存候。
と回想している。とはいえ、東陽に「逸史糾謬の序」と題する一文がある【資料篇③】。『逸史』は、大坂懐徳堂の第四代学主で朱子学者の中井竹山(名は積善、字は子慶。享保15年[1730]~文化元年[1804]~)が著した徳川家康の編年体の一代記で、寛政11年(1799)序刊。それについて、敬所は事実誤認や語句の誤謬を糾した『逸史糺繆』を著したのである。ただし、『日本儒林叢書』第四巻(文政12年[1829]洛下儒隠瞽叟の序あり)に収めるそれに東陽の序は載せられていない。
※猪飼敬所の事績については、猪飼彦纉筆記の『於多満幾』(『史籍雑纂』第三所収)が基本資料で、それをふまえて書かれた森銑三「猪飼敬所」(『森銑三著作集第二巻人物篇二』、中央公論社、昭和46年)がある。また三村竹清「猪飼敬所」(初出は「書菀」八ノ一・二。『三村竹清集七』所収、青裳堂、昭和60年)参照。
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