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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(3)

著者 二宮俊博

妻の訃報、悼亡詩

 江戸に着いてほどなく、東陽は五絶「内に報ず二首」(『詩鈔』巻六)を作っている。江戸に発つ際に、病の身をおして夜遅くまで片時も手を休めずあれこれと旅仕度を整えてくれた妻のことが絶えず気に懸かっていたのであろう。

  老歎經年別、貧憐守舍難  老いては歎ず経年の別れ、貧は憐れむ守舎
               の難きを
  家書擾人意、只是報平安  家書 人意をみだす、只だ是れ平安を報ず
◯経年別 中唐・劉長卿の五律「秦系に酬ゆ」詩に「旧路経年の別れ、寒潮每日かへる」と。〇家書 家からの便り。〇人意 吾が意。〇報平安 無事を知らせる。盛唐・岑参の七絶「京に入る使に逢ふ」(『唐詩選』巻七)に「馬上相逢ふて紙筆無し、君にって平安を報ぜしむ」と。

   其二
  孤館秋燈影、夜深寒蛬哀  孤館 秋燈の影、夜深くして寒蛩哀し
  報書情未盡、封了又重開  報書 情未だ尽くさず、封じをはりて又た
               重ねて開く
◯寒蛩 晩秋に鳴くコオロギ。わびしさを誘うもの。

其二の転・結句は中唐・張籍の七絶「秋思」(『三体詩』巻一)に「洛陽城裏秋風を見る、家書を作らんと欲して意万重。復た恐る怱怱として説き尽くさざらんことを、行人発するに臨んで又た封を開く」とある、後半二句をふまえた表現。
 さらに七絶「家信を報ず二首」(『詩鈔』巻九)があり、

  客舍秋風落木催  客舍秋風 落木催す
  海天月冷雁聲哀  海天月冷やかにして雁声哀し
  家書先見平安字  家書先づ見る平安の字
  猶恐擾將人意來  ほ恐る人意を擾将し来らんことを
◯落木 落葉。杜甫の七律「登高」詩(『唐詩選』巻五)に「無辺の落木蕭蕭として下る」と。◯海天 大海と天空。白居易の七律「江楼夕望客を招く」詩(『白氏文集』巻二十)に「海天東のかた望めば夕茫茫たり」と。◯擾将 〈将〉は、動詞の後に置く助詞で、口語的表現。

   其二
  一家分作各天人  一家分かれて各天の人と
  旅况憑兒慰辛苦  旅况 児にって辛苦を慰む
  頼是客身無疾病  さいはひに是れ客身疾病無く
  籠中閑藥任生塵  籠中の閑薬 塵を生ずるにまか
◯各天 遠くに離ればなれになる。「古詩十九首」其一(『文選』巻二十九)の「相去ること万里餘、各おの天の一涯に在り」から出た語。◯旅况 故郷を離れた旅先での暮らしぶりやそれに伴う心情。◯閑薬 使わない薬。

と詠んでいる。夫に我が身を案じさせまいと、まず「平安」(無事)の字を書いて安心させる妻の気遣いが東陽には心に染みたにちがいない。また其二からは、この江戸祗役に東陽がその子、達を帯同していたことが知られる。
 されど、東陽が8月6日に家を離れてから72日、10月18日に二度と帰らぬ人となってしまった。享年49。天明3年(1783)春に18歳で嫁いできてから三十餘年、自らの信念を曲げぬ直言の士で愛想の一つも言わず家ではひたすら学問に没頭する夫を支え苦楽を共にしてきた妻である。『詩鈔』巻五に七律「初冬十八日、内人世をつ。余、家を離れること七十二日なり矣。訃至り驚き歎きて惘然ばうぜんたり。忌をはりて猶ほ慌惚くわうこつとして夢の如きなり」と題する作がある。

  一官殊未報糟  一官ことに未だ糟糠に報いず
  遠役何圖此悼亡  遠役何ぞ図らんここに悼亡せんとは
  流水落花春寂寂  流水落花 春寂寂
  人間天上夢茫茫  人間じんかん天上 夢茫茫
  可堪身世桑楡影  ふ可けんや身世桑楡の影
  欲斷男兒鐡石腸  断えんと欲す男児鉄石の腸
  最憶行裝劇勞苦  最も憶ふ行装はなはだ労苦し
  夜深力疾不辭忙  夜深く疾をつとめて忙を辞せず
  *糖は、糠の誤字。
◯一官 一官半職(ふつうの官職)の意。◯糟糠 酒かすと米ぬか。粗末な食事。貧乏暮らしで苦労を共にした妻をいう。『書言故事』巻一、夫婦類に「自ら其の妻を称して糟糠の妻と曰ふ」と。◯遠役 ここでは江戸祗役をいう。◯寂寂 ひっそりとしたさま。晩唐・李群玉の七律「黄陵廟」詩(『三体詩』巻二)に「野廟江に向って春寂寂」と。◯流水落花・人間天上 五代・李煜の「浪淘沙令」詞に「流水落花春去りぬ、天上人間」と。〈天上人間〉は、「たがいに通ずることのない遥かな隔たりを意味する成語」(村上哲見『中国詩人選集16李煜』)。◯茫茫 ぼんやりとしてとりとめもないさま。◯身世 身の上。杜甫の五古「北征」詩に「益々身世の拙なるを嘆く」と。◯桑楡 老年の喩え。『書言故事』巻二、耆老類に「年老を桑楡の暮影と云ふ」と。◯鉄石腸 剛毅な心。南宋・文天祥の七律「楼に登る」詩(『文山先生全集』卷十四)に「茫茫たる地老と天荒と、かくの如き男児鉄石の腸」と。◯行装 旅じたく。◯力疾 病の身をおして。
 訃報を手にしたときは惘然(頭の中が真っ白)となり、忌明けを過ぎてもまだ妻の死が信じられず、心は慌惚(ぼんやり)として腑抜けたようになっている。それでも何とか気を取り直して、この詩を詠んだのである。
 また五律「悼亡」詩(『詩鈔』巻三)には、

  惜來鄕里別、留守一憑卿  惜しみ来る郷里の別れ、留守 一に卿に
               
  糟糠偕老契、琴瑟悼亡情  糟糠 偕老の契り、琴瑟 悼亡の情
  聞訃驚疑梦、嘆命泣飲聲  訃を聞くに驚きて夢かと疑ふ、命を嘆じて
               泣きて声を飲む
  勤勞家政務、坐自憶平生  勤労す家政の務め、そぞに平生を憶ふ
◯卿 ここでは、夫が妻を呼ぶときの言い方。◯糟糠 前詩の語釈参照。◯偕老 『詩経』風「撃鼓」に「子の手を執り、子とともに老いん」と。◯琴瑟 夫婦仲睦まじいこと。『詩経』小雅「常棣」に「妻子好合、琴瑟を鼓すが如し」と。◯嘆命 身の不運を嘆く。◯泣飲声 忍び音に泣く。◯家政 家庭内の仕事。

と詠じている。
 さらに五律「感を書す」詩(『詩鈔』巻三)には、次のように云う。

  艱難衹役客、悽愴悼亡詩  艱難 祗役の客、悽愴たり悼亡の詩
  身病向誰頼、腹悲唯自知  身病 誰に向って頼らん、腹悲 唯だ自ら
               知るのみ
  旅愁天暮處、生計歳窮時  旅愁 天暮るるとき、生計 歳窮まる時
  坐咽思家淚、零丁奈女兒  そぞろに咽ぶ家を思ふ涙、零丁れいていたり女児を
               いかんせん
◯祗役 君主の命を奉じて他所に赴く。六朝宋・謝霊運「隣里方山を相送る」詩に「祗役して皇邑を出づ」と。ここは江戸出府をいう。◯悽愴 いたましく悲しい。双声語。◯腹悲 心のなかの悲しみ。後漢・応劭『風俗通義』巻三、衍礼に「俚語に婦死せば腹悲唯だ身之を知るのみ」とあり、妻を亡くした悲しみは当人以外に誰もわからないという。◯思家涙 晩唐・薛逢の七律「九曰雨中懐を言ふ」詩に「ひそかに満眼家を思ふの涙をもつて、そそぎて長江東北の流れに寄せん」と。◯零丁 独りぼっちで助ける人がないさま。畳韻語。三国蜀・李密「陳情表」(『文選』巻三十七、『古文真宝』後集巻八)に「零丁孤苦にして、成立に至れり」と。

 詩末には「季女ひとり家に居りて喪を守る。煢煢けいけいたる孑影げつえい何如いかんと為すや」という自注がある。〈季女〉は、末むすめ。東陽には、三人のむすめがいたが、長女は既に嫁ぎ、三女は夭逝しており、ここは家にいる次女を指す。〈煢煢〉は、ひとりぼっちのさま。李密「陳情表」に「煢煢として孑立し、形影相弔ふ」と。
 江戸での務めを終え帰国した東陽は、七絶「家に帰る二首」(『詩鈔』巻九)を作り、題下に「客冬内を喪ふ。悲喜交々こもごも集まる」と注して、

  久客衰躬幸得支  久客衰躬 幸ひに支ふるを得
  團欒歡晤自忘疲  団欒歓晤 自ら疲れを忘る
  帰來偏愛吾廬好  帰り来たればひとへに愛す吾が廬の好きを
  高枕攸然暢四肢  枕を高くして攸然いうぜん 四肢を
◯団欒 (家族が)輪になって集まる。畳韻語。◯歓晤 楽しい語らい。◯吾廬 我が家。晋・陶潜「山海経を読む」詩(『古文真宝』前集)に「衆鳥託すること有るをよろこび、吾も亦た吾が廬を愛す」と。◯攸然 ゆったりと。〈攸)は悠と同じ。◯暢四肢 思いっきり手足を伸ばす。白居易の五排「北窓三友」詩(『白氏文集』巻六十二)に「一詠四支を暢ぶ」と。〈支〉は肢と同じ。

   其二
  物在人亡獨自悲  物在り人亡して独自ひとり悲しむ
  音容夢幻尚相疑  音容夢幻 ほ相疑ふ
  同行總喜還家樂  同行総べて家に還るの楽しみを喜ぶに
  夜雨西窓話向誰  夜雨西窓 誰に向ってかたらん
◯物在人亡 盛唐・李頎の七律「盧五の旧居に題す」詩(『唐詩選』巻五)に「物在り人亡してまみゆるの期無し」と。◯音容 声や姿形。白居易の七古「長恨歌」(『白氏文集』巻十二)に「一別音容ふたつながら渺茫」と。◯夜雨西窓 晩唐・李商隠の七絶「夜雨北に寄す」詩(『唐詩選』巻八)に「いつまさに共に西窓の燭をって、却って巴山夜雨の時を話らん」と。ちなみに、『夜航詩話』巻三に「西牎は婦人の寝室を謂ふ」と。〇向 於と同じ。

と詠じている。また亡き妻を夢に見ることもあった。七絶「夢に亡妻を見る」(『詩鈔』巻九)に云う、

  寒牀梦覺坐依俙  寒牀 夢覚めてそぞろに依稀たり
  風竹蕭蕭雪撲扉  風竹蕭蕭として雪 扉を
  欹枕疑來燈下影  枕をそばだてて疑ひ来る燈下の影
  夜深獨坐尚縫衣  夜深く独り坐してほ衣を縫ふ
◯寒牀 寒々とした寝床。◯依稀 かすかなさま。おぼろげなさま。畳韻語。ちなみに『夜航詩話』巻五に「依約、依は約略なり。蓋し物色隠微の貌。依微隠約は義皆同じ。れ彷彿も亦た分明ならざるの貌、大同にして小異なり」と。◯蕭蕭 竹の葉ずれの音。◯欹枕 寝たまま枕を斜めにたてる。

 「亡き妻を夢に見てはっと目が覚めたら、行燈の傍らでいつものように縫いものをしている変わらぬ姿があったような気がした」。
 さらに七絶「感を書す二首」(『詩鈔』巻九)がある。
  霜下秋風節物更  霜下り秋風 節物あらたまる
  腹悲難慰悼亡情  腹悲慰め難し悼亡の情
  空床永夜孤燈影  空床永夜 孤燈の影
  倩得寒蛩滿意鳴  寒蛩をやとひ得て意に満つるまで鳴かしめん
◯霜下 『礼記』月令に「季秋の月、(中略)霜始めて降る」と。◯節物 季節の風物。◯腹悲 心のなかの悲しみ。前出「感を書す」詩の語釈参照。

   其二
  孤懷感物坐相干  孤懐 物に感じてそぞろに相干す
  遺愛盆梅自慰看  遺愛の盆梅 自ら慰め看る
  心事對花空濺淚  心事 花に対して空しく涙をそそ
  春風側側暮窓寒  春風側側として暮窓寒し
◯感物 西晋・潘岳「悼亡詩三首」其三(『文選』巻二十三)に「悲懐物に感じて来り、泣涕情に応じてつ」と。◯干 (心を)乱す。◯遺愛盆梅 亡妻がいつくしんだ盆栽の梅。◯心事 胸のうち。◯濺淚 杜甫の五律「春望」詩に「時に感じては花にも涙を濺ぐ」と。◯側側 寒いさま。あるいは風の音の形容。

 この二首は同時の作ではなく、其一は文化12年晩秋、其二は翌春の作かと思われる。

※東陽の妻については、「内人日紫喜氏墓碣銘」(『文集』巻六)がある。


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