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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(2)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

小栗明卿(宝暦13年[1763]~天明4年[1784])

 明卿について『東山寿宴集』には「名は煥。宗吉と称す。小濱の人。今、平安に在り」と記す。東陽より七歳下。それぞれ伊勢や若狭から笈を負って上京し、同じく古学を志していた。そもそも東陽が京に遊学した理由の一つが、伊藤仁斎の遺風に憧れを抱いていたことによるが、東陽より数年後れて上京したと思われる明卿の場合も、おそらく同様であったろう。両人には京の地に足を踏み入れて間もないと思われるころ、嵯峨の二尊院に詣で仁斎の墓を展した作があるのも、奇縁と言えば奇縁である【資料編①】。二人は出会ってすぐに意気投合し、東陽にとって明卿は「畏友」とも「知己」とも称すべき存在となった【資料編②】。かくして餘暇には連れだって山水に遊んだり、ともに堂上公家の詩筵に列したりしたが、天明4年(1783)正月、22歳で病歿した。東陽は明卿の弟、十洲を慫慂して遺稿集を世に出すのに奔走尽力し、知友の義捐金を募り、後述の巌垣龍溪に巻頭の序文を依頼し、自らも序を認めた。『常山遺稿』と名づけられたその集(内閣文庫蔵)には、江村北海の跋文も附されている【資料編③】。
 明卿の訃報を聞いて詠じた詩がある。七律「明卿を哭す二首」(『詩
鈔』巻四)がそれで、次のように詠じられている。

  平生懷抱向君開  平生の懐抱 君に向って開き
  名士殊將德行推  名士はことに徳行をもつて推す
  嘆命還偏吟楚些  命を嘆きてひとへに楚些を吟じ
  説詩空自憶匡來  詩を説きて空しく自ら匡来を憶ふ
  脩文地下千秋技  文を地下にをさむ千秋の技
  授簡王門上客才  簡を王門に授く上客の才
  音容髣髴猶疑梦  音容髣髴としてほ夢かと疑ひ
  腸斷夜烏啼月哀  腸断す夜烏 月に啼いて哀し
◯平生懐抱 日頃の胸中に抱いている思い。盛唐・杜甫の七律「厳大夫に奉侍す」詩に「一生の懐抱誰に向って開かん」と。◯徳行 孔門の四科(徳行・言語・政事・文学)の第一。◯楚些 招魂歌。『楚辞』の宋玉「招魂」で句末に〈些〉字を用いることからいう。北宋・黄庭堅の五古「懐を元翁に寄す」(『山谷外集』巻十)に「明窓玉を懐く友、清絶楚些を吟ず」と。◯説詩云々 『漢書』匡衡伝に「諸儒これが為に語りて曰く、詩を説くこと無かれ、匡まさに来たる。鼎に来たらば人のおとがひを解く」と。『蒙求』巻上の標題に「匡衡鑿壁」がある。もとは『詩経』の詩をいうが、ここではいわゆる漢詩のこと。◯修文 杜甫の五律「李常侍嶧を哭す二首」其一に「一代の風流尽き、文を修めて地下深し」と。『書言故事』巻五、祭奠類に「文人の死を挽して文を地下に修むと言ふ。三十国春秋に蘇韶卒す。後、従弟の節、韶を見る。節因って幽冥の事を問ふ。韶曰く、顔回・卜商は見[現]に地下の修文郎り」と。『太平御覧』巻八八三、神鬼部三に引く王隠の『晋書』にも見える。〈修文郎〉は、冥土で文書作成を掌る官。◯授簡 詩文を作るよう命じられる。南朝宋の謝恵連「雪の賦」(『文選』巻十三)に梁王と司馬相如との問答を仮構して「簡を司馬大夫に授けて曰く、そなたの秘思を、き、子の姸辞を騁せ、色をひとしくしよろしきはかり、寡人の為に之を賦せよ」と。◯音容髣髴 生前の声や姿がほのかに浮かぶ。〈髣髴〉は、双声語。

   其二
  追懷往事轉傷情  往事を追懐すればうたた情を傷ましむ
  何幸與君聯璧名  何の幸ひぞ君と聯璧の名あり
  周易楚騒同講習  周易楚騒 ともに講習し
  春花秋月伴吟行  春花秋月 ともに吟行す
  病來猶贈新詩稾  病来 ほ贈る新詩稿
  宦暇能尋舊社盟  宦暇能く尋ぬ旧社盟
  寒雨蕭條孤舘夜  寒雨蕭条たり孤館の夜
  淚沾衾枕梦難成  涙衾枕をうるほして夢成り難し
◯聯璧 優れた人物を併称する言い方。西晋の潘岳と夏侯湛とが容姿麗しく、いつも一緒にいると都人は聯璧と称したという。『蒙求』巻上の標題に「岳湛連璧」。『書言故事』巻三、訪臨類に、この語を挙げ、「二客ともに至る者を称して連璧賁臨と」と。◯楚騒 『楚辞』の「離騒」。◯講習 議論しあって学習する。『易経』兌卦の象伝に「麗沢は兌なり。君子以て朋友講習す」と。◯宦暇 勤務の暇なとき。◯旧社盟 かつて同じ詩社に属した文学仲間、詩友。◯蕭条 もの寂しいさま。畳韻語。◯衾枕 (掛け)布団と枕。

 明卿が没してから、二十年ほど後、齢五十近くになった東陽に次のように題した七絶(『詩鈔』巻八)がある。

 「雨夜偶閲故友小栗明卿遺稿、感念平昔、若在初歿。掩巻憯然泣下不已。奚啻聞山陽笛經過黄公酒壚也。嗚呼、斯人而不幸短命、若天假之以年、蔚為當代文宗、豈不重可惜哉。余獨何人、徒保頑躬、行年垂五十而名不稱焉。將竟如此而没、其亦可哀也已。因以涙和墨、書感於巻末。三首」
(雨夜偶々たまたま故友小栗明卿の遺稿を閲するに、平昔を感念し、初めて歿するに在るがごとし。巻をおほいて憯然さんぜんとしてなみだ下りてまず。なんただに山陽の笛を聞き黄公の壚を経過するのみならんや。嗚呼ああの人にして不幸短命、し天のこれに仮するに年を以てすれば、うつとして当代の文宗らん、に重ねて惜しむ可からざらんや。余独り何人ぞや、いたづらに頑躬を保ち、行年五十になんなんとして名称せられず、まさに竟つひかくの如くして没せんとす、其れ亦た哀れむ可きのみ。因って涙を以て墨に和し、感を巻末に書す。三首)
◯若在初歿 まだ亡くなったばかりのような気がする、という意。『世説新語』傷逝篇に晋・庾亮の語として「亡児を感念すれば、初めて没するに在るがごとし」と。◯憯然 心痛むさま。◯山陽笛 竹林七賢の一人、西晋の向秀が友人の嵆康・呂安を偲んで作った「思旧の賦」(『文選』巻十六)を踏まえた表現。『書言故事』巻十二、笛類に「山陽聞笛」を挙げ、「晋の向秀、山陽に在り、聞くに隣人の笛を吹く者有り、声を発すること嘹亮、追って曩時嵆(康)王(戎)遊宴のよしみを想ひ、昔に感じて思旧の賦を作る」と。王戎のこととするのは、俗本ゆえの誤り。『蒙求』巻上の標題にも「向秀聞笛」がある。◯黄公壚 黄さんの酒場。これも竹林の七賢の一人、王戎が栄達した後、店の前を馬車で通り過ぎ、昔は嵆康や阮籍とここで大いに飲んだものだと回想したという(『世説新語』傷逝篇)。◯斯人云々 孔子が不治の病に罹った弟子の伯牛(冉耕)に対して発した「の人にして斯の疾有るや」(『論語』雍也篇)という嗟嘆の語および愛弟子顔回を悼んだ言葉「不幸短命して死せり」(雍也篇・先進篇)に拠る。◯天仮云々 この言い方、古くは『左氏伝』僖公二十八年に「天之に年を仮し、而して其の害を除けり」と。◯余独何人 三国・魏の曹丕「王朗に与ふる書」に「余独り何人ぞ、能く其の寿を全うするや」と。◯頑躬 頑健な身体。

 思えば天明八年正月晦日に発生した大火で一切合財を失くし、尾羽打ち枯らして帰郷したが、幸いにも寛政元年(1789)33歳の時、郷里の津藩に儒者として迎えられ仕官ができた。とはいうものの、それ以来ずっと支城のある伊賀上野でくすぶり続け、文雅に携わるのを快しとしない山崎闇斎派の偏狭な道学者との対立軋轢に苦しみ、気がつけばいつの間にやら不惑はとうに過ぎて知命の歳が目前に迫っている。東陽には『論語』の「四十五十にして聞ゆること無くんば、た畏るるに足らざるのみ」(子罕篇)という言葉や「君子は世を没して名の称せられざるを疾む焉」(衛霊公篇)という文言が胸に突き刺さってくるようで、このまま成すこともなく山国に埋もれてしまうのか、といった不安や焦燥感を募らせていた。そんな時、亡友の遺稿集を久しぶりに繙いてみたのである。詩題に三首というが、実際に記されているのは二首。秋夜の静かな雨音は人を内省的にさせ過去への追憶を呼び覚ますものだが、二十年近くも昔のことが、ありありと今思い出される。

  詩酒交歡洛水樓  詩酒交歓 洛水の楼
  毎逢花月互相求  花月に逢ふごとに互に相求む
  秋風寒雨孤燈下  秋風寒雨 孤燈の下
  忍更凄凉憶昔遊  更に凄涼として昔遊を憶ふに忍びんや
◯洛水 ここでは鴨川を指す。◯花月 春花秋月。

   其二
  往事茫茫獨自悲  往事茫茫 独自ひとり悲しむ
  百年難復遇心知  百年ふたたびがたし心知に遇ふを
  黯然相憶魂銷盡  黯然として相憶うて魂銷尽す
  風雪都門送我時  風雪都門 我を送る時
◯百年 一生涯。◯心知 知己。◯黯然云々 六朝梁・江淹「別れの賦」(『文選』巻十六)に「黯然として銷魂する者は唯だ別れ矣」と。

 明卿が元気なころは、わが寓居にもよく訪ねてきてくれた。嫁に来たばかりの妻も足音で彼だとわかったほどで、春雨に降りこめられ、読書にも倦んで話し相手が欲しいと思っていると君があらわれた。

   五絶「明卿至る」二首其一(『詩鈔』巻六)
  閑窓倦讀書、春雨鬱陶情  閑窓讀書に倦む、春雨鬱陶の情
  不用通名姓、家人識履聲  名姓を通ずるを用ひず、家人履声を識る
◯鬱陶情 朋友を思う気持ち。六朝斉・謝朓「中書省に直す」詩(『文選』巻三十)に「朋情以て鬱陶たり、春物まさに駘蕩」というのに基く。なお、この詩は『古文真宝』前集にも載せるが、六朝宋・謝霊運の作とする。俗本ゆえの誤り。ただし、東陽が最初に親しんだのは、『古文真宝』であろう。

 また明卿が入京間もなく東陽の寓居に身を寄せていた時分であろうか、花見に誘われて出かけ、帰って来たら一勉強するつもりが、すっかり酔って脇息にもたれたままグウグウ高いびき。はっと目が覚めたら午前零時ごろ、隣の書斎ではまだ読書に励んでいる。ああ、自分は何をしているのだ、浮かれ気分の己れが恥ずかしい。

   七絶「明卿に贈る」(『詩鈔』巻七)
  花宴歸來酩酊餘  花宴帰り来る酩酊の餘
  春窓隱几月升初  春窓几にる月升る初め
  三更一覺齁〃夢  三更一たび覚む齁齁の夢
  慙媿隣齋尚讀書  慙媿す隣斎ほ書を読むに
◯齁齁 鼾の音。唐詩には見えず、北宋・蘇軾の「庚辰歳正月十二日、天門冬酒熟し、予自ら之を漉す」云々と題する七律二首の其二に「睡息齁齁自ら聞くを得たり」とある。

 勉強と言えば、こんな詩も作っている。
 「日が沈む頃になると打ち水をしたように清々しい風が勉強部屋に吹いてくる。勉強するには今からが掻き入れ時、寸暇を惜しんで読書に励んでいる。人は誘い合って鴨川に夕涼みにゆくのだが」。

   七絶「明卿が夏夕読書に和す」(『詩鈔』巻七)
  庭樹葱葱隔夕陽  庭樹葱葱夕陽を隔つ
  清風如水灑書堂  清風水の如く書堂にそそ
  分陰自惜三餘業  分陰自ら惜しむ三餘の業
  人誘東川去納凉  人は誘って東川に去きて納涼す
◯葱葱 あおあおと生い茂るさま。◯分陰 わずかな時間。寸暇。『世説新語』政事篇の劉孝標注に引く『晋陽秋』に陶侃の語として「大禹は聖人なるに猶ほ寸陰を惜しむ。凡俗に至っては、まさに分陰を惜しむべし」と。『晋書』陶侃伝にもほぼ同様の語が見える。◯三餘業 読書、勉強のこと。三国魏の董遇が勉強するなら三餘の時を以てすべきで、冬は歳の餘、夜は日の餘、雨降りは時の餘だと言った故事(『三国志』魏書、王肅伝の裴松之注に引く魚豢『魏略』)による。『蒙求』巻下の標題に「董遇三餘」がある。

 とはいえ、日頃は互いに切磋して学問に励んでいるだけに、「佳節に逢ふごとに君をむかへて酔い、幾処の名山か我を誘ひて行く」(『詩鈔』巻四、七律「明卿の忌日に梅を折ってつかたてまつる」)のは、格好の気晴らしであり、何よりの楽しみでもあった。
 かかる明卿は内大臣広幡前豊(寛保2年[1742]~天明3年[1783])の寵遇を得ていた。その遺稿中には広幡公の命を受けて詠じた作が幾つか収められている。公は文学好きで知られ「此殿儒士を召さるゝに、官位の有無をばいはず、何れも同じ所に召入れ、膝すり寄せて文作り物語などし給ひける」(『落栗物語』)という闊達な一面を有していた。この広幡前豊に仕えていたのが次に挙げる太田玩鷗である。ただし、明卿の遺稿中には玩鷗や序文を書いた巌垣龍溪の名は見あたらない。

※『落栗物語』については、新日本古典文学大系『当代江戸百物語 在津紀事 仮名世説』(岩波書店、平成12年)所収の多比治郁夫校注『落栗物語』参照。


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