覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(1)
著者 二宮俊博
はじめに
前稿において津阪東陽がその死を迎える前年に書いた「寿壙誌銘」に訳注を施したが、これは彼の自叙伝とでもいうべき内容を有する文章であった。ただこの種の文章の性格もあってか、若き日の東陽が遊学した安永・天明期の京都漢詩壇との関わりや文化11年(1814)8月から翌年5月にかけての江戸滞在期における当地の漢詩人たちとの交流については、全く触れられていない。国会図書館蔵の写本『東陽先生詩文集』のうち『東陽先生詩鈔』(以下『詩鈔』)を繙くと、そこに登場する詩人文人や儒者はまことに多士済々ではなはだ興味深い。
そこで、今回はとりあえず京都での交友の一端を見てゆきたい。ただし、『詩鈔』は詩体別に編まれているが、そのうち巻二の五言律詩を缺いている。本来ならここに収められるべき京都遊学以前の詩から伊賀上野在任中までの作が抜けているのである。さらに、それぞれの詩体はおおむね年代順に配列されているとみてよいが、必ずしもそうなってない場合もあるようで、その点些か注意を要する。
ところで、京都および江戸での交友については、すでに津坂治男氏の『津坂東陽伝』(桜楓社、昭和63年)に人名を挙げており、同じく『生誕250年 津坂東陽の生涯』(竹林館、平成19年)にもやや簡略にこれを述べる。さらに揖斐高氏の『夜航余話』解説(新日本古典文学大系『日本詩史 五山堂詩話』所収。岩波書店、平成3年)にも簡にして要を得た記述があり、江戸漢詩研究の第一人者ならではの目配りの利いた指摘がなされている。その点からすれば、本稿は格別これといって新たな知見を呈示しているわけではないが、具体的に詩文を挙げてこれを読み解き、東陽ならびにその周辺の人物に対する理解を深めることにしたい。とはいえ、江戸漢詩の専家でもなく東陽周辺の詩人の集についての調べが及ばず充分ではない上に、肝心の漢詩文の読みにも心もとないところが多いという、ないない尽くしの現状では、とりあえず覚書の二字を冠して内容の粗漏貧弱を糊塗するほかにない。専家の御示教を仰ぐとともに、不備な点は今後おいおい補ってゆきたいと思っている。
なお、本文中に取り上げた人物の略伝や生卒年については、近藤春雄『日本漢文学大事典』(明治書院、昭和60年)、市古貞次ほか編『国書人名辞典』(岩波書店、平成3年~11年刊)や長澤規矩也監修・長澤孝三編『改訂増補漢文学者総覧』(汲古書院、平成23年)を参照した。また各項目ごとに参考にした文献を挙げたが、汲古書院刊の『詩集日本漢詩』『詞華集日本漢詩』に収録されている関連する詩文集は、これを逐一明記しなかったものの、それらに附された佐野正巳氏の解題も参考になった。さらに詩に語釈を施す上で、岩波書店刊の『江戸詩人選集』全10巻(平成2年~5年)から教えられる点が多かったことも、ここに附記しておく。
安永・天明期京都の漢詩界
さて、東陽が京都での遊学生活をいつ始めたのか、その時期は実のところ明確ではない。津坂治男氏は「本格的に京都に住み着いて勉学に専念した」のを安永8年(1779)東陽23歳の頃かと推定されている。ただ、私見ではもう少し前に遡って安永3、4年18、19歳の時にはすでに京都での活動を始めており、当初は郷里との間を行き来していたのではないかと考えている。そのことは、具体的に詩を読むなかで改めて取り上げたい。そして天明元年(1781)10月に書かれた「夢を記す」と題する一文には、20歳頃のこととして「謬って諸老先生の推奨する所と為り、猥りに才子の称を窃み、筴を挟み觚を操り、群彦の間に周旋し、未だ嘗て其の後に瞠若たらず」(『東陽先生文集』巻八)と述べており、詩人たちと交際し、人後に落ちずにいると自負している。
それでは、東陽が過した安永・天明期の漢詩界はいかなる状況にあったのだろうか。当時その長老格として中心にいたのが、東陽より41歳上の江村北海(名は綬、字は君錫。正徳3年[1713]~天明8年[1788])ならびに北海とは1歳違いの龍草廬(名は彦二郎、字は公美。正徳4年[1714]~寛政4年[1792])であった。このうち、北海は明和8年(1771)に『日本詩史』を、安永2年(1773)には『日本詩選』、続いて同6年(1777)には続編を上梓していた。これらの評論集や詞華集には東陽の名はまだ見えぬものの、天明3年(1783)北海70の時に総勢235名にも上る人々から寄せられた寿詩をまとめて刊行された『東山寿宴集』上下二冊には東陽の七律も一首収められ、「津阪君裕 名は孝綽。常之進と称す。伊勢菰野の人」と記されている。なお、この前年には在京の文化人名鑑で住所録を兼ねた『平安人物志』の天明2年版が刊行されているが、そこには東陽に関する記載はない。
ついで天明6年(1786)、龍草廬の弟子にあたる岡崎廬門(名は信好、字は師古。享保19年[1734]~天明7年[1787])が五言律詩部・七言律詩部・五七絶句部の三部からなる『平安風雅』一巻を編んだ。それに載せられた詩人の数は155名。そのなかに東陽の作が二首採られている。なお、廬門は安永8年(1779)に草廬を盟主とする詩社、幽蘭社の同人や所縁ある詩人の作400餘首を輯めて『麗澤集』五巻を編み、これを刊行している。
龍草廬の名は、東陽の詩に見あたらないが、北海については、これを先生と称している(『詩鈔』巻四、七律「江北海先生の河内に遊ぶを送る」)。ちなみに、東陽が先生と呼んでいるのは、先儒の藤原惺窩、中江藤樹、新井白石、伊藤仁斎・東涯父子で、その経書の解釈や文章に批判的であった荻生徂徠に対しても称した例が見えるが、いずれも同時代の者ではない。ただ皆川淇園(名は愿、字は伯恭。享保19年[1734]~文化4年[1807])については、後述するごとく、その没後に先生と称したことがある。東陽は「寿壙誌銘」において「常の師無し」としているものの、少なくとも詩においては北海に師事していたとみなしてよさそうである。
ところで今、淇園の名を挙げたが、彼は当時、在京の学者として令名があり数多くの門下を擁していた。その他、学界では那波魯堂(名は師曾、字は孝卿。享保12年[1727]~寛政元年[1789])が阿波藩の召聘に応じて安永9年(1780)には京を離れ徳島に赴いたものの、後に幕府の儒官となり寛政の三博士の一人に数えられる柴野栗山(享保19年[1834]~文化4年[1807])の姿もあった。一方、堀川の古義堂は伊藤東所(名は善韶。享保15年[1730]~文化元年[1804])が三代目となっていた。彼らのうちとりわけ詩学に造詣の深かったのは淇園で、明和8年に同い年の栗山の序を冠して唐詩を論じた『淇園詩話』を刊行しているし、天明4年には栗山や赤松滄洲と詩のサークル三白社を作っている。
それでは次に、東陽と交流の深かった詩人を幾人か取り上げてみよう。そのほとんどが北海門下かそれにつらなる人士である。
※江村北海については、新日本古典文学大系『日本詩史 五山堂詩話』(岩波書店、平成3年)の大谷雅夫「日本詩史解説」参照。また高橋昌彦「江村北海の前半生」(都留文科大学「国文学論考」第26号、平成2年)「江村北海年譜攷(一)」(同上「国文学論考」第49号、平成25年)がある。
このほか、京都の漢詩界については、『京都の歴史6伝統の定着』(学藝書林、昭和48年)第二第四節の「漢詩文壇と『平安人物志』」(宗政五十緒執筆)参照。さらに高橋博巳『京都藝苑のネットワーク』(ぺりかん社、昭和63年)からも御教示を得た。
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