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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(5)

著者 二宮俊博

江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか

 大窪詩仏(明和4年[1767]~天保8年[1837])

 名は行、字は天民。通称、柳太郎。詩仏は、その号。常陸の人。その父は日本橋銀町で小児科医を開業。十代後半に江戸に出て、山本北山(名は信有。宝暦2年[1752]~文化9年[1812])の奚義塾に学ぶととにもに市河寛斎の江湖詩社に加盟した。東陽より10歳下。
 詩仏との最初の出会いについて、揖斐高氏の「大窪詩仏年譜稿」には、「9月頃、江戸に出府した津藩の儒者津坂東陽より詩を贈らる」とし、五律「天民に贈る」詩(『詩鈔』巻三)を挙げている。もっとも、『詩鈔』の配列では前掲の「河士静に和す」詩の後にこの「天民に贈る」詩が置かれており、それに従えば、文化12年の作とみるのがよいかと思われるが、前稿でも指摘したごとく詩の配列には必ずしも信をおけない面があり、確定できない。

  江湖社盟主、名譽四方傳  江湖社盟の主、名誉四方に伝ふ
  家祭詩中佛、客參儒者禪  家は祭る詩中の仏、客は参ず儒者の禅
  書窓閑日月、畫壁好山川  書窓 閑日月、画壁 好山川
  蕩佚人間事、醉鄕邀樂天  人間じんかんの事を蕩佚し、酔郷 楽しみを天に
               もと
◯詩中仏 杜甫のこと。文化7年(1810)刊の『詩聖堂詩集』に掲げられた市河寛斎の序に「其の帰りて居を今の地に卜するや、堂に少陵の像を置し、詩聖を以て称と為す。(中略)又た自ら詩仏と称す。張南湖が老杜詩中仏の語を取るなり」と。張南湖は、南宋・張鎡(号は南湖)のこと。その五絶「殊南軒」詩(『南湖集』巻七)に「杜老は詩中の仏、能く言ふ竹に香有りと」と。◯儒者禅 詩をいう。晩唐五代の詩僧、尚顔の五律「斉己上人の集を読む」詩に「詩は儒者の禅と為す、此の格まされ仙」と。◯閑日月 気ままな月日(を過ごすこと)。白居易の五古「洛陽に愚叟有り」詩(『白氏文集』巻六十三)に「此れり身を終ふるに到るまで、ことごとく閑日月と為さん」と。◯好山川 すばらしい山水画。◯蕩佚人間事 世間の事柄を全く気にかけない。『後漢書』馮衍伝下に「杪小の礼を闊略し、人間の事を蕩佚す」と。初唐・李賢の注に「放蕩縦逸にしてつねの俗に拘らざるなり」と。◯酔郷 気分のいい酔い心地。初唐の王績に「酔郷記」がある。◯邀楽 『荘子』徐無鬼篇に「吾れ吾が子と遊ぶ所の者は、天地に遊ぶ。吾れ之と楽しみを天にもとめ、吾れ之と食を地に邀む」と。

 ところで東陽が詩仏に詩を贈ったのは、あるいは吉田雪坡や画人幾阪煙崖との繋がりによるのかもしれない。煙崖は伊勢津の人で、名は世達。通称は忠兵衛。別に小羊とも号する。生卒年は不明だが、詩仏の文化10年(1813)の作に「煙崖を送る」詩があり、『今四家絶句』に収める(揖斐高「大窪詩仏年譜稿」)。後述の菊池五山『五山堂詩話』巻七(文化10年[1813]刊)には「雪坡、其の郷の画人烟崖を帯びて来る」との記述がある。雪坡は、津藩士吉田重麗の号。代官・郡奉行として民政に意を尽くし、文政7年(1724)没。五山はそれ以前に巻五(文化8年[1811]刊)で「洞津の田重麗、字は正夫。雪坡と号す。画を能くし詩に耽る」と、これを取り上げている。この人について揖斐高氏は「文化9年には江戸藩邸に在ったものと思われ、詩仏ともその時以来の旧知であろう」(「大窪詩仏年譜稿」)という。煙崖に初めて会った五山は「其の人老樸、其の詩閑雅、うべなり其の画の秀潤愛す可きこと」と述べ、「雪坡は詩人にして画を能くする者、烟崖は画人にして詩を能くする者」と評している。
 かかる煙崖・雪坡の両人と東陽とがいつ知り合ったのか詳細は不明ながら、交友が深くなるのは文化4年(1807)津に召還されて以降のようだ。江戸出府までの間に、雪坡に対しては七絶「吉司農正夫が郷を巡るを送る二首」(『詩鈔』巻九)や五絶「戯れに正夫に贈る」詩(『詩鈔』巻六)があり、煙崖には七絶「(てがみ)に代へて烟崖生に示す」詩(『詩鈔』巻九)や五絶「幾阪小羊、余が為に斎壁に画く。居然として滄州の趣、真にせきの内、便すなはち万里遥かと為すを覚ゆ」と題する作(『詩鈔』巻六)などがある。煙崖はその後、南宋・劉克荘(字は潜夫、号は後村)の詩を撰した『後村詩鈔』上下巻を書肆陽華堂(津の山形屋か)から上梓しており、文政元年(1818)津に滞在したおりに書かれた詩仏の序に「煙崖、画を善くし、声価籍甚、天下これを伝ふ。又た詩を好み最も放翁・後村を喜ぶ。是れ其の画品の高妙なる所以ゆゑんなり」と評している。なお、東陽に「劉後村詩鈔の序」(『文集』巻二)があり、煙崖について「詩弟子」と述べているが、どういうわけか、この序は刊本に載せられていない。それはそれとして、東陽が詩仏と交友するに際しては、書簡などによる雪坡や煙崖の仲介があったのではなかろうか。もしそうだとすれば、東陽が江戸の詩人のうち最初に訪ねたのは詩仏だという蓋然性は高くなる。
 さて、東陽にはさらに神田お玉が池に構えた詩仏の詩聖堂を詠じた作がある。七律「詩仏の玉池精舎」詩(『詩鈔』巻五)がそれで、文化12年春の作であろう。

  清福逍遙舊隱淪  清福 逍遙す旧隠淪
  林泉勝槪考槃新  林泉の勝概 考槃新たなり
  但能置酒延佳客  但だ能く置酒して佳客をまね
  那用將詩將貴人  なんぞ用ひん詩をもつて貴人に謁するを
  風色洗心池畔柳  風色 心を洗ふ池畔の柳
  時名晦跡市中塵  時名 跡をくらます市中の塵
  花枝好自過牆去  花枝く自らかきを過ぎて
  分與隣家一半春  隣家に分与す一半の春
◯清福 俗事に煩わされず閑雅であること。元・耶律楚材の五古「冬夜琴を弾じ頗る得る所有り……」と題する詩(『湛然居士文集』卷十一)に「秋思雅興を尽くし、三楽清福を歌ふ」と。◯逍遥 自適して楽しむ。『荘子』譲王篇に「天地の間に逍遥して心意自得す」と。畳韻語。◯隠淪 世を避けて隠遁すること。隠士をいう。畳韻語。杜甫の五古「韋左丞丈に贈る」詩(『古文真宝』前集)に「行歌 隠淪に非ず」と。◯考槃 隠宅を構えること。『詩経』衛風「考槃」に「たのしみして澗に在り、碩人これ寛」とあり、朱熹の集伝に「考は、成なり。槃は、盤桓の意。言ふこころは其の隠処の室を成すなり」と。ここでは、文化3年(1806)に、お玉が池に詩聖堂を築いたことを指す。◯置酒 酒を用意する。◯風色 風光、景色。◯洗心 この語、古くは、心をあらためる意として『易経』繋辞上伝にみえるが、ここは心の煩累を洗い去る。李白の五古「韋少府に別る」詩に「心を洗ふ向溪の月、耳を清うす敬亭の猿」と。◯時名 今の名声。◯市中塵 町なか。市塵。◯一半春 春の半分。

 なお、詩聖堂の様子は、清水礫洲の『ありやなしや』(安政4年[1857]刊)に「お玉が池の裡なれども詩聖堂と云は二階屋にて、上は塾生、下は家内の住居なり。お玉が池は三四百坪の池にて、蓮を植、柳を植、池のほとりに翠舎屠蘇といふ一室を作り、はき庭の体にて飛石伝ひ十五六畳の座敷あり。先生それに住して来客に接し、ひとのもとめに応じて書画を揮毫す」云々と描かれている。そこでは、たびたび詩会や書画会が開かれていた。
 それから東陽は今一度、詩聖堂に招かれたことがあった。七律「重ねて玉池精舎に遊ぶ」詩(『詩鈔』巻五)に云う、

  牆東避世趣還深  牆東 世を避け趣かへって深し
  室邇好從招隱吟  室ちかし従はん招隠の吟
  柳擁庭池留客釣  柳は庭池を擁して客を留めて釣らしめ
  花浮樽酒引人斟  花は樽酒に浮びて人を引きてましむ
  曲和山水琴中韻  曲は和す山水琴中の韻
  興逸烟霞象外心  興は逸す烟霞象外の心
  都下文淵名勝會  都下の文淵 名勝会す
  春風無日不披襟  春風 日として襟をひらかざるは無し
◯牆東 城東。「世を避く墻東の王君公」と評された後漢の王君公の故事(『後漢書』逢朋伝)から、隠者の住まいを指す。◯室邇 『詩経』鄭風「東門之墠」に「其の室は則ち邇く、其の人は甚だ遠し」と。◯招隠吟 人に帰隠をすすめる歌。西晋の左思や陸機に「招隠詩」(『文選』巻二十二)がある。ここは詩仏から招待されたことをいう。◯烟霞 もや・朝やけ夕やけ。山水の景色。◯象外 現象世界の外。世俗を離れた境地。寒山の詩に「自ら幽居の楽しむをねがふ、とこしへに象外の人と為らん」と。◯文淵 文人の集うところ。◯名勝 名望すぐれた士。著名人。『世説新語』文学篇に「宣武(桓温)諸名勝を集めて易を講ず」と。◯披襟 襟元をはだける。戦国楚・宋玉「風の賦」(『文選』巻十三)に「風有り颯然として至る。王すなはち襟をひらいて之に当たる」と。

 「貴殿は城東に世を避けて住んでおられるが、御宅は近いことだし、さあお招きにあずかろう」。津藩の屋敷を出て神田川にかかる和泉橋を渡った先の松川町にお玉が池はあったのである。
 また七絶には「詩仏居士の玉池精舎に題す二首」(『詩鈔』巻九)がある。

  繞池楊柳翠雲流  池をめぐる楊柳 翠雲流る
  安樂閑窩此占幽  安楽の閑窩 ここに幽を占む
  大隱誰知塵海裡  大隠誰か知らん塵海のうち
  釣竿容與對滄洲  釣竿ようとして滄洲に対す
◯翠雲 みどりの雲。◯安楽閑窩 北宋の邵雍(字は堯夫)は洛陽に隠棲し、その居を安楽窩と名づけ、自ら安楽先生と号した(『宋史』道学伝)。〈窩〉は、住処すみかの意。◯大隠 晋・王康琚「反招隠詩」(『文選』巻二十二)に「大隠は朝市に隠る」と。◯塵海 俗世間。明・王守仁の七律「西湖酔中みだりに書す二首」其一(『王文成公全書』巻十九)に「十年塵海魂夢を労す」と。◯釣竿 釣りは隠者の生活を象徴する。なお、詩末の自注に「池に鯽魚(ふな)多し、軒(てすり)りて釣を垂る」と。◯容与 ゆったりとしたさま。双声語。古くは『楚辞』九歌・湘夫人に見える。◯滄洲 ここは、青々とした池の水面に向き合うことを詠じるが、更には自由な天地に心を馳せるという含意がある。『夜航詩話』巻二に「詩家つねに滄洲を用ふ。蓋し滄浪を取り名と為す。只だ江海の境を称す。朝市に対して言ふのみ。必ずしも仙島を指さざるなり」と。

   其二
  日飲無何樂志優  日々無何に飲み志を楽しませること優なり
  墨君逸興醉郷遊  墨君の逸興 酔郷の遊
  毫端爛漫封侯富  毫端爛漫たり 封侯の富
  寫破渭川千畝秋  写破す渭川千畝の秋
◯無何 何もないところ。『荘子』にいう「無何有郷」。白居易の五排「渭村退居、礼部崔侍郎・翰林銭舎人に寄す」詩(『白氏文集』巻十五)に「不動は吾が志り、無何は是れ我が郷」と。◯墨君 墨竹。宋・孫奕『履斎示児編』雜記・易物に「文与可竹を画く、亦た之を名づけて墨君と曰ふ」と。◯逸興 すぐれた興趣。◯酔郷 気分のよい酔い心地。◯毫端 筆端。◯爛漫 あざやかでのびやかなさま。畳韻語。◯封侯 ここでは大身の旗本や大名をいう。◯渭川千畝 竹をいう。『史記』貨殖列伝に「渭川千畝の竹」と。

 酔餘、興にのって筆先から次々と生み出される墨竹の画がちょっとした小大名に匹敵するほどの豊かな富を稼ぎ出したというのである。詩仏が墨竹を善くしたことに関連して、東陽の七絶に「天民の墨竹に題す」詩(『詩鈔』巻九)があるほか、「天民の墨竹に題す」(『文集』巻七)という文章もある。
 『詩鈔』に載せるのは、この二首だが、三村竹清「大窪詩仏」(『三村竹清集六』、青裳堂、昭和59年)には三首とし、三首目に次の詩を挙げている。

  德義本推人物尤  德義と推す人物のいうなるを
  清襟灑落是虚舟  清襟灑落 是れ虚舟
  淵才雅思詩中佛  淵才雅思 詩中の仏
  万言波馳更自由  万言波馳し更に自由
◯尤 とりわけ優れていること。◯清襟 高潔な胸懐。六朝梁・任昉「王文憲集の序」(『文選』巻四十六)に「の子清襟を照らす」と。◯灑落 さっぱりとして物事にこだわらない。洒脱。◯虚舟 虚心坦懐の喩え。前出「河子静に和す」詩の語釈参照。◯淵才雅思 〈淵才〉は、深くて豊かな才能。七絶「六如上人に贈る」詩(『詩鈔』巻七)にも「淵才雅思 詩中の仏」と、全く同じ表現。◯万言波馳 中唐・柳宗元の五古「連州の凌員外司馬を哭す」詩(『柳河東集』巻四十三)に「天庭 高文をかがやかし、万字 波の馳せるが如し」と。◯自由 思いのまま。

 さて東陽が任期を終え、江戸を離れる際には、詩仏が送別の宴を設けてくれた。七律「天民に留別す」詩(『詩鈔』巻五)は、その時の作。

  不淺社盟詩酒歡  浅からず社盟詩酒の歓
  客中愁思頼君寛  客中の愁思 君にりてゆるうす
  窮來偏見人情薄  窮し来りてひとへに見る人情の薄きを
  老去深知世味酸  老いきて深く知る世味の酸なるを
  雨濕祖筵添別恨  雨は祖筵を湿うるほして別恨に添ひ
  雲臨岐路擁征鞍  雲は岐路に臨んで征鞍を擁す
  白頭重會多難得  白頭の重会 多くは得難し
  千里相思梦裡看  千里の相思 夢裡に看ん
◯社盟 同好の文学仲間。詩のサークル。◯世味 世間の情味。世態人情。韓愈の五古「爽に示す」詩(『韓昌黎集』巻六)に「吾れ老いて世味薄く、因循留連を致す」と。◯祖筵 送別の席。〈祖〉は、旅の無事を願って道祖神を祭ること。◯別恨 別離の恨み。◯征鞍 旅する者の乗る馬。◯千里相思 李白の七古「雪に対して酔うて後、王歴陽に贈る」詩に「千里相思ふ明月楼」と。

頷聯に「人情薄」「世味酸」というのは、江戸での体験に基づく述懐であろうと思われるのだが、それが具体的に何を指しているのかは不明である。ただ、東陽にとっては妻の死のみならず、ほかにもあまり面白くない出来事や不如意な事態があったらしい。この点については、また後で触れたい。そうした「客中の愁思」をいくぶんなりとも和らげてくれたのが、後述の朝川善庵も言うごとく「人と交はるに城府を設けず、辺幅を修めず」(「西游詩草叙」)、気さくに誰とでも分け隔てなく付き合う詩仏の存在だったのである。
 その後も詩仏とは交流が続き、津にもどってからの作に七絶「和して天民に答ふ」詩(『詩鈔』巻九)がある。

  相思勞夢各天遥  相思夢を労す各天遥かなり
  尺素殷勤慰鬱陶  尺素殷勤にして鬱陶を慰む
  多謝今春南浦別  多謝す今春南浦の別れ
  斜風細雨送過橋  斜風細雨 送りて橋を過ぐ
◯相思云々 中唐・劉長卿の五古「冤句の宋少府の庁に題して留別す」詩に「他日 瓊樹の枝、相思 夢寐を労さん」と。〈労夢〉は、たびたび夢に見る。◯各天 それぞれ離ればなれであること。前出「家信を報ず二首」其二の語釈参照。◯尺素 手紙。古楽府「飲馬長城窟行」(『文選』巻二十七)に「魚中に尺素の書有り」と。〈尺〉は一尺、〈素〉は帛。◯殷勤 ねんごろ。畳韻語。◯鬱陶 朋友を思う気持ち。六朝斉・謝朓「中書省に宿す」(『文選』巻三十)に「朋情以て鬱陶たり、春物まさに駘蕩」と。『詩鈔』巻六の「明卿至る」詩にも「閑窓読書に倦む、春雨鬱陶の情」と。◯多謝 厚く御礼を述べる。◯南浦 もとは南の水辺の意。『楚辞』九歌「河伯」に「美人を南浦に送る」とあり、送別の地を指す。◯斜風細雨 晩唐・李群玉の七律「南荘春晩二首」其一に「南村の小路桃花落ち、細雨斜風独自ひとり帰る」と。◯橋 日本橋であろうか。

 また七律「天民の書ならびに詩を得、時に越の新潟に在り」詩(『詩鈔』巻五)は、文化13年(1816)8月から越後に遊んだ詩仏の便りを得て詠んだ作。

  離索偏驚歳序更  離索ひとへに驚く歳序の更まるを
  關山北望雁歸聲  関山北望す雁帰る声
  隔年書信天涯便  隔年の書信 天涯の便
  絶世詩方海内名  絶世の詩方 海内の名
  流水浮雲為客恨  流水浮雲 客るの恨
  清風明月憶君情  清風明月 君を憶ふ情
  一場春梦東遊興  一場の春夢 東遊の興
  何日重尋舊社盟  いづれの日にか重ねて尋ねん旧社盟
◯離索 離群索居。◯詩方 作詩の腕前をいうか。用例未見。◯流水浮雲 行雲流水と同じ。東陽の七律「端文仲の越にくを送る」(『詩鈔』巻四)に「浮雲流水旅行の身」と。◯清風明月 『南史』謝譓伝の「時有り独り酔ひて曰く、吾が室に入る者は、但だ清風有るのみ。吾が飲に対する者は、唯だ明月有るのみ」から出た語。◯一場春夢 儚いことの喩え。七絶「懐を士善・公績に寄す」詩(『詩鈔』巻八)に「一場の春夢 東流の水」と。◯東遊 東陽の江戸祇役を指す。◯何日云々 南宋・劉克荘の七律「方君節監丞を送る」詩(『後村先生大全集』巻三十八)に「いづれの日にか重ねて尋ねん洛杜の盟」と。

 「いつかもう一度貴君のもとを訪ね、詩を作りたいものだ」という東陽の願いはかなわなかったが、詩仏は文政元年(1818)夏から京を目指した西遊の旅に出ると、その途上、わざわざ津に立ち寄ってくれた。東陽は彼を歓待し、藩の重役にも紹介した。その時の作に、五律「南浦舟中、天民に和す」(『詩鈔』巻三)がある。

  汗漫滄州趣、逸興伴風流  汗漫 滄州の趣、逸興 風流に伴ふ
  故舊陳徐榻、神仙李郭舟  故旧 陳徐のたふ、神仙 李郭の舟
  劇談驚四座、豪氣睨千秋  劇談 四座を驚かし、豪気 千秋を睨む
  明日天涯別、若為期再遊  明日天涯に別るれば、なんれぞ再遊を期
               さん
◯汗漫 ひろびろとしたさま。畳韻語。◯滄州趣 〈滄州〉は、直接は海原をさしていうが、自由気ままな境涯の意を含む。六朝斉・謝朓「宣城にき、新林浦に出、版橋に向ふ」(『文選』巻二十七)に「既によろこぶ懐禄の情、又たかなふ滄洲の趣」と。◯逸興 世俗を脱した興趣。◯陳徐榻 特別にもてなすこと。後漢の名士、陳蕃が壁掛け式の長椅子(榻)をしつらえ、徐が来たときだけ、それに座らせて優待した故事(『後漢書』徐伝)。『蒙求』巻下の標題に「陳蕃下榻」と。◯李郭舟 後漢の郭太(字は林宗)が洛陽に遊び、河南尹の李膺と交友を深め、黄河を渡って帰郷する際には李膺が舟に同乗して見送ったが、その様子を人々は神仙のようだと評した(『後漢書』郭太伝)。『蒙求』巻上の標題に「李郭仙舟」がある。◯劇談 流暢闊達な話しぶり。西晋・左思「蜀都の賦」(『文選』巻四)に「劇談戯論して腕をり掌をつ」、杜甫「李十二白に寄す二十韻」詩に「劇談野逸を憐れむ」と。

 一方、詩仏には、「東陽先生及び雪坡・天保・緑天・松宇・烟崖諸君とともに安並大夫の山荘に遊ぶ。(杜甫の七律「張氏の隠居に題す」詩の)〈石門斜日林邱に到る〉を用いて韻と為し、七首を賦す」詩ほかがある。安並大夫は加判奉行の安並左仲。天保は小川天保、忘却先生とあだ名された人である。また松宇は高根承芳。のち伊賀の崇広堂、津の有造館で教えたとのこと。緑天は中山緑天、この人については伝未詳。詩仏は、西遊の詩を上下二巻にまとめ、文政2年(1819)にこれを上梓したが、東陽にその序を請うている【資料篇④】。さらに、文政7年(1824)、詩仏が清の翁長祚(号は榴庵。伝未詳)『花暦百詠』を校訂刊行した際にも、求められて東陽は序文を載せた。
 そして、東陽が詩仏に最後に寄せた詩が、次に挙げる七絶「懐ひを天民に寄す」(『詩鈔』巻十)である。

  關山千里美人賖  関山千里 美人はるかなり
  安得相思輙命車  いづくんぞ相思へばすなはち車を命ずるを得ん
  日暮江濱坐惆悵  日暮れて江浜 そぞろに惆悵ちうちやう
  秋風吹亂白蘋花  秋風吹き乱す白蘋花
◯美人 うるわしき人。詩仏を指す。◯安得 どうしたら……できるだろう。願望を示す表現。◯相思云々 三国魏・嵆康の友人呂安はその気高い趣きに心服し、「一たび相思ふごとに、すなはち千里駕を命じ」て、会いにやって来たという(『晋書』嵆康伝)。『蒙求』巻上の標題に「嵆呂命駕」、『書言故事』巻三、朋友類に「千里命駕」がある。◯日暮 三国魏の阮籍「詠懐十七首」其十五(『文選』巻二十三)に「日暮れて親友を思ふ、晤言して以て自らもらさん」と。◯惆悵 感傷的気分になる。双声語。◯白蘋花 浮草の白い花。

※ 大窪詩仏については、鈴木碧堂『大窪詩仏』(珂北郷土研究会、昭和12年)、今関天彭「大窪詩仏(上)(下)」(「雅友」第46・7号、昭和35年4・6月。『江戸詩人評伝集1』に収録)があり、年譜に揖斐高「大窪詩仏年譜稿―化政期詩人の交遊考証―(文化年間まで)」(『江戸詩歌論』所収。汲古書院、平成10年)、大森林造『大窪詩仏ノート』(梓書房、平成10年)がある。また詩の注釈に前掲『江戸漢詩選5市河寛斎・大窪詩仏』(岩波書店、平成2年)がある。
 なお、吉田雪坡・幾阪煙崖ら津関係の人物については、梅原三千・西田重嗣執筆にかかる『津市史 第三巻』(津市役所、昭和36年)を参照。煙崖が東陽の「詩弟子」であったことは、本文中に述べたが、雪坡についても同書には「重麗は津坂東陽について儒学を学び文事に長じた」という。煙崖の『後村詩鈔』は、汲古書院刊の『和刻本漢詩集成 宋詩篇第六集』に、その影印を収める。


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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(6)

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