見出し画像

日帰り会津の記録〜時代が母を鬼にした〜

 疲れた時はできるだけ遠くに行って現実逃避するのが常です。
 車をかっ飛ばしてついた場所は、飯盛山。会津若松市に行ってきました。飯盛山といえば白虎隊ですので、今日は白虎隊について思う事を徒然なるままに…。

 山下智久が主演のドラマ「白虎隊」で、初めてその歴史を知りました。その時は、"時代の犠牲者として若き命が散っていった"という認識で、詳しい歴史とかは一切分からなかったんです。日本史も苦手で、新撰組と白虎隊って同じ年代の頃に活躍してたんだぁとか言ってるほどで…。
 そんな知識激浅人間が会津まで行ったのは、車で行ける距離にあったからです。実は飯盛山に行ったのはこれで3回目です。3回ほど行っても、資料を見ても全然分からないんですけどね。浅堀りです。←お馬鹿

 でも、記憶に残ったものもあります。それが、白虎隊の生き残り飯沼貞吉の話です。
 "武士の家に生まれ、武士道を生きなければならなかった漢"というのが、私の彼に対する印象です。白虎隊志願をし戦地に向かう際、彼の母親が言った言葉は、私にとってすごく衝撃でした。

 「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。」(wikipediaより引用)

 厳しい…。というか、もはや母としては鬼なのでは?とも思います。だけど、そんなお母様が詠んだ激励の短歌を手にして戦地に行きました。時代…といえばそれまでですが、たとえ10代の若者であろうと武士として育てたからには、最後まで武士らしくあれと教えたのです。
 貞吉だけじゃなく、あの頃戦争で駆り出された全ての戦士が、皆そんな風に教育されたのだと思うと、何だかその一体感が怖いなぁと感じてしまいます。武士を育てるために子供を産む…というのは辛くないのですかね。一生懸命育てても最後は戦死。けど、その答えは自分が戦乱の世を生きて、初めてわかるのかもしれません。

 さて、そんな若き武士の集まり「白虎隊」も、最期は飯盛山で集団自決を選びます。貞吉も刀で喉元をついたけれど、幸か不幸かたった一人生き延びてしまいます。山で瀕死の状態の彼を助けて、自宅で治療してくれた方がいたのです。

 戦後は長州藩の楢崎頼三に引き取られ山口県へと旅立ちます。もともと文武両道で優秀な成績を収めていた貞吉だったので、そんなところが新政府軍から買われたのでしょう。しかし、貞吉が生きていること、敵側である長州で教育していることが会津と長州に知られることを危惧した楢崎は、貞吉の母親に生存のみを知らせ、自分の知人や家族以外には貞吉の事を隠し続けました。生存していることを知った母親が、どんな心情だったのかは不明ですが、どうだったんでしょう…。恥じたのか、生きていて良かったと思ったのか、その両方か…。
 貞吉側としても、心中穏やかであったはずもなく自分だけが生き残ってしまったことをずっと恥じて、何度か自殺を試みたようです。
 そんな痛々しい姿を見た楢崎から「今この国は外国からの脅威にさらされていて、内輪で争っている場合ではなくなった。助けられた命があるのなら、たくさん勉強してその知識を国のために使いなさい」と諭され、一心不乱に勉学に励むようになったそうです。その後は、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍して日本の発展に貢献しました。

 ちなみに彼は日清戦争時、危険だからピストルを持った方がいいと言われたけれど、「私は白虎隊だったから、もう死んでるはずの人間なんです」といって拒否したエピソードがあります。
 そして、こんな辞世の句を残しています。

 「すぎし世は夢か現か白雲の空にうかべる心地こそすれ」

 「今までの人生は夢だったのか現実だったのか、まるで空に浮かぶ雲のような心地だ」という意味だと思いますが、戊辰戦争後からの人生は彼にとっては夢のような日々だったという事なのでしょうか?確かに明治維新後に「飯沼貞雄」と改名しています。会津藩の「飯沼貞吉」はあの日白虎隊として戦死した。そう思うと、人生を二度生きたとも考えられます。
 
 ちなみに、飯沼は結婚して子孫を残しています。最後の地は仙台でしたが、晩年の飯沼は家族に「自分の形見のものを会津へ持って葬りたいという話があったらこれ(歯と毛髪)を持っていきなさい」と遺言を残しました。
 そして彼の死後26年ほど経った後、白虎隊士たちとは少し離れた場所に墓が立てられました。こんなにも時間が経ってしまったのは、「たとえ白虎隊の1人と言えども裏切り者を他の隊士達と一緒の所に埋葬するのはどうなの?」という意見が少なからずあったからだそうな。
 確かに、会津戦争を調べるとまぁ壮絶で痛ましい戦いであったことがわかります。逆に、それだけ悲惨な戦争だったからこそ、疑問視する人の声があったのは仕方ないのかなとも思います。
 でも、飯沼貞吉の証言があったからこそ、今でも白虎隊の話は現代に生きています。なので、そういった意味で会津の発展に貢献しているんですよね。皮肉なものです。

 長々と飯沼貞吉について語りましたが、この人「どんなに絶望的な思いに苛まれても、最後までしっかり国のために尽くした」ところが本当に武士らしいなぁと思います。みんなで自刃した中で自分だけ生き残って、あまつさえ敵の長州側に着くというのは、そりゃ自殺願望も生まれますし、自刃した18人の隊士にも顔向けできないし、その後二度と会津の地を踏まなかったのも納得できます。
 しかし、彼はもう一度「国のために」生きようとしました。そしてちゃんと結果を残しているんですよね。当時希少だった電通技師として国の発展に貢献して、そして日清戦争にも従軍した。
 うまく言えないのですが、ちゃんと武士道を貫いているんです。ぶれないというか。

 ちなみにサムネイル画像は白虎隊士たちが自刃する前に見た最後の景色です。この位置から鶴ヶ城が燃えているのに気づいて、「今の戦力で戦っても足手まといになるし、そもそも無事に城まで行けるかどうかもわからない。敵に捕まって恥を晒すくらいなら潔くここで果てよう」となったみたいです。
 戦後155年を経た今、ここから見える景色が私にはとても美しく映りました。それこそ、自分が立っている足元に幾多の遺体が転がっていたなんて忘れてしまうほどに。
 飯森山では白虎隊士たちの墓だけでなく、会津戦争でその身を捧げた他の隊士たちや、攻防戦に参加した婦女子たちの慰霊碑もあります。なんとも言えない物悲しい気持ちになる所でしたが、再び訪れたいと思わせる不思議な場所でもありました。
 
 
 
 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?