好きだったらなんでもありなのか?②
とりあえず気分をアゲて書くために流します。再度試みる訳で「Overtime」
昨日のnoteが不完全燃焼でいかん。消化不良で胸焼けが起きている感じだ。
ゲップを出したい気分だがモヤモヤしていてはっきりしない。
昨日のnoteは長いあらすじみたいなところがあるので、ドラマを見ていて思い出したことなど書いてみる。
私が中学二年生の時の担任は家庭科の若い未婚教師だった。それこそドラマの有村架純ちゃんぐらいの年齢だったと思うが当時自分が14歳だと10歳上の女性はおばさんだと思っていた。実際そばの女子体育短大生をおばさんと言っていたし。
で、担任は有村架純ちゃんの様にかわいくなかったし(眼鏡でちょっと出っ歯だったと記憶する)いつも怒鳴っていたのでヒステリーババアと言っていた。
そんな中でその担任に注意されては追いかけられていた男子がいた。
クソババアに呼び捨てにされて追いかけられるなんてのは私にとって屈辱だから毎回懲りずにやってる男子生徒の気が知れなかった。あいつは相当のバカなんだと思っていたがある時そう思っている自分の考えを友達にいったところ、その男子生徒の家は両親の不仲で離婚前だったらしく当の本人は思春期も相まって相当不安定だった様子だ。
「あれは愛情の裏返しだよ。あいつ家がゴタついてるからその憂さを先生で晴らしてるんじゃないの」
「中学聖日記」を見ていて脳裏に浮かんだのはこの男子生徒と担任のことだ。男子生徒は何かわからないが追いかけられて逃げているのが嬉しそうだったし、担任は担任でこの男子生徒を特にかわいがっていたと今なら分かる。家庭環境を分かっていて心配して目をかけていたのだろうが、当時の私からしたらなんだかイライラしたしモヤモヤもしたものだ。
特段なんとも思っていなかったがこの男の子は可愛らしい顔をしていたと記憶する。(でも性格がいじめっ子だったので私は嫌ではあったが)
その後担任は結婚して苗字が変わった。男子生徒がおとなしくなって追いかけっこがなくなったのはそれから直ぐだったか。
女の私からみたらさっぱりわからないが、もしかしたらあの男子生徒はあの担任が好きだったのかもしれない。それでもやっぱり私たちは中学生で多感な年ごろでありながら、まだ愛も恋も区別もつかなくてどうしていいのかもわからず持て余してます年ごろだった。そのことを考えると大人の責任というものはあるのだなぁと思う。
「中学聖日記」が‘‘禁断の純愛‘‘というキャッチフレーズだったかと思うが、禁じられていることは禁じたまま何事もないまま卒業して終わるのが相応しい。
人と人の出会いにはタイミングがある。どんなに好きでも出会ってはならない期間というものが人には存在するのだと思う。
私の友人は10歳年下のご主人を持つ。はじめて見たときは私たちはもうすぐアラフォーなのに友人のご主人はかわいさが残る背の高いアイドル並みのイケメンだった。私の友人は確かに学生時代から老け込んでいないし、ちょっと普通と違っていてオリジナリティあふれる人だったからふたりが並んでいてもおかしくはないがつい
「どうしたの?」
と言ってしまった。そういうタイプ好きだったけ?そう思ったのだ。彼女は少し困ったような顔をして
「みんなに言われるよ。どうやって落としたかって。魔女かって」
私はそんな風には思わなかったけれど相手が私たちよりはるかに幼いのでちょっと面食らったのだ。ただ彼女は昔から大人しく静かに話す人だったが、性格的に芸術センスに富んでいるせいか私のような凡人にはわからないところがあった。きっとご主人とは私のわからないそういう部分が分かりあえたのかもしれない。
「最初はね、お互いの恋愛の話からうまくいってないことを相談して、されてって感じだったの。で上手くいかないので助言しているうちにだんだんね」
と彼女は言う。世話好きで聞き上手な彼女を好きになるのは分かる。
「じゃぁご主人からアプローチしてきたんだ」
と言えばその通りであった。私は自分の好きなように行動してしまうのであまり年が下な男性では駄目だ。かといって言うことを聞くタイプでもないので、ほとんど同じくらいの年齢を振り回してきたしそれが楽だったから彼女とご主人との関係を自分にはできない関係性だとほほえましく見ていた。
社会人になってから10歳差があっても、学生のころとは違う。未来といっても職場環境を選択する時私たちは10代のころより視野が広がっているが、可能性の幅は狭まっている。10歳差の伴侶というものは負担にならない。負担といえば、年齢の差は肉体的に差があるので、そちらの負担だろうか。きっと体力的についていけないのではなかろうか。
10代の学生時代は親の保護下に置かれていて守られている。学校に行くのも衣食住も何もかも親の手から成り、自己責任という言葉はまだ口にしなくてもいい年齢だ。それを考えるとやっぱりあの「中学聖日記」というドラマは自分の中で受け入れることが出来ない。
主人公聖の背中を押してくれる人物たちが何人か出てくる。自分の気持ちに正直に生きよと。
勝太郎の上司の原口律(吉田 羊)もそのひとりで彼女はバイセクシャリティのバリキャリだが、自分の狙ったものは必ず手に入れる人物として描かれる。聖との話を聞きながら勝太郎にアドバイスを与えるも自分も勝太郎を好きになる。正直にそれが言える女性だ。
ドラマは私のような視点からも真逆からの視点からも描かれていてやっぱりこの問題は何が正しいのか分からない。
ただひとつ言えるのは人間の精神年齢は実際の年齢とイコールではない、ということだ。
成人していたっておこちゃまはいてそういう人は理性で留めることが出来ない。衝動とは時にとても怖い。その先の人生を狂わせることがあるからだ。
ただのドラマ、されどドラマ。考えれば考えるほど分からなくなる。
ところで昨今のドラマというのは年の差や性別の問題などが旬なのか?ふと思ったことがあるので、続きはまた次回に。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!