書き散らす
イチローのスピーチ聴いてちょっと泣きそうになってる。今でこそ自分は毎日のようにプロ野球を見ているわけだけど、思えば野球にのめり込んだのは彼のおかげだと思うのだ。
我が家は祖父母の代から広島東洋カープのファン。幼い頃の私は、まあ割と多くの子どもがそうであるような気もするのだが、強いものを何かと好んだ。だから2007年とかそこらのカープに惹かれるわけもなく、最初はスワローズをちょっとした贔屓にしていた。毎週ヤクルトとかジョアを届けに来てくれる配達員がいたので、親近感を持っていたのだ。しかしスワローズも多分そこまで強くなかったので、今では考えられない(が理解は出来る)のだけど、ジャイアンツを好きな時期もあった。タレントが揃っていたのだから仕方ない。個人的には松本哲也を気に入っていた記憶がある。
単に強いものが好きというだけでなく、自分は反抗期がやたら早かったというのがある。小学校2,3年の時が一番酷かったと思うが、そういうわけでその頃は父親の好むもんを肯定する気にはなれなかったのだろう。
それから、そもそもプロ野球にさして興味が無かったとも言える。甲子園のミーハー的なファンである母親は、プロはお金のためにやってるから面白くないみたいなことをよく言っており、自分はそれに影響を受けていたような気がする。まあ高校野球がめちゃくちゃ面白いと、そういう意見というか感想を持つのは充分にあり得る。プロの選手は1回負けて終わりではないので、そういう意味では甲子園ほどのドラマが生まれにくい。また、プロは一球一球の間合いが長いので、高校野球に比べて展開がゆっくりで、劇的という感じが少ない時間もそれなりに長い、といったところだろう。
そんな母もイチローは好きだったようで、午前中にMLBの中継をテレビでやっているときにはよく映していたし、自分もそれを見ていた。純粋に競技として野球が好き、というのは今も割とそういうところはあるのだけど、小さい頃はとりわけその傾向が強かったと思う。だから、国内のペナントレースは殆ど見なかったけれど国際試合は結構見ていた。その流れでメジャーリーグもそれなりに好きになったのだと思う。
今もたまにイチローの好プレー集みたいな動画をYouTubeで見るけれど、いつだって声を上げてしまう。驚きと耽溺と、リアルタイムで見ることの出来たことへの感謝などが詰まった溜息である。
そんなイチローが殿堂入りの資格を得たということで、大変喜ばしい。スピーチを聴いていて思ったのは、英語を喋っていてもイチローそのものであることが凄いなという印象。もう20年近くアメリカに住んでいるということから連想されるほどのプロナンシエーションではないかもしれないが、大観衆をドッと笑わせるウィットも含め、まさにイチローが喋ってるなあという思いになる。
(閑話)
さて、最後にnoteを公開して2ヶ月が近い。もう8月が終わると思うと気が狂うね。
大学生の夏休みはまだ3週間ほどを残しているのだけれど、それでもやっぱり8月の終わりってのは今でも長い休暇の終わりのイメージと固く結びついている。もっと言えば甲子園が全日程を消化した瞬間にその寂寥感は訪れる。
そんで、しばらくnoteをアップしていなかったわけだけれど、書き散らした下書きならいくつも重なってちょっとした山を成している。
思ったんだけど、紙の日記帳か、そうでなくても自分専用のものに日々の記録を綴ったほうがいいんじゃないかということ。
そもそも自分はnoteを日記として使っていたわけではないけれど、毎日どこかしらで心を動かされる瞬間があって、それをもとにインスピレーションが生まれて何かしら書き始めるので、そういう意味では日記帳的ではある。あくまでも日常のものに立脚しているから。
といっても、やっぱり公開するとなると、ある程度しっかりしたものを書かないといけないかなと思う。これ自体はnoteを始めた目論見通りというか、主観で凝り固まらないように、いや、スタート地点ではそうでもいいのだけれど、人に見られれることを想定することで客観を取り入れたいという狙いがあったから。
だが、そうすることで推敲を繰り返したり、自らのツッコミに応じて話を膨らませていくうちに満足してしまうことも少なくないのだ。ナマの気持ち、というものを残す箇所が今の自分には無いような気がする。やはりnoteは清書して発信する場という位置づけを自分はしているからだ。
7月も8月も本当は色んなことが起こって、そのつど本当に色んなことを思った。しかしそれをぶっつけで人前にさらそうとするあまり、自分の言葉を上手く制御できなくて諦めてしまった。さっき書いてたイチローのことだって似たようなもんである。上手く書けないから削がれた部分は少なくない。そう思うと、やはり物事の語られなかったところにこそ価値があるような気がしてくる。ということで今日は取り敢えず、この2ヶ月間でまだ言葉に出来ていないそうした事柄を簡単に整理して終わりたいと思う。
まず先月は、帰省というイベントがあった。親族の死に伴うもの。その人は医療というものをあまり信用していなかったらしく、もっと早く、もっと定期的に病院を受診していればなんとかなったのではないかと言われている。自分も単に面倒という理由で大学2年以降は健康診断に行っていない。そしてその間に喫煙者になった。勝手ながら教訓めいたものを感じ、ひとまず禁煙というところから始めた。ちょうど2ヶ月になる。2ヶ月ニコチンとタールを摂取していない。
葬儀の日にあの事件が発生した。元首相が銃殺されるという事件である。私は絶対に投票に行こうという思いを強くした。前回の衆議院選から投票をし始めたが、今回は特に、この権利を行使しなければと強く感じた。というのも、ネットでは元首相を偲ぶムードが広がっていたから。まるで、死んでしまったら生前のすべてがチャラになるかのような恐ろしいやさしさ。決して与することは出来ない。
ついでに言うと、政治家をキャラ化して勝手に距離感を近く捉えることの危険性も再認識した。それはロシアとプーチン氏についても同じである。だから未だに小泉進次郎構文とかでキャッキャしてるのが信じられない。政治家ってのはオモチャにされたもん勝ちなのか?違うだろ?
帰省した際には家族と、私自身の今後の歩みについて少し話をした。早い話が留年することに決まった。これについてはまたしっかりと書きたい。自分の就活は何がダメだったのかを。実を言えば下書きが2つほどあるのだけれど。やっぱりこれもまずノートに書き散らしてからネット公開用の文章を作ろうかな。
今のところ夏休みは今年もなんもない期間が続いているけれど、その中でも『ハーモニー』と出会えたことは例外的に良いことだった。久しぶりに本を一冊読み切ったと思う。書く方だけでなく、読む方も中途半端で放置しているものが少なくない。これはもはや性分なのだろう。
書ける範囲の狭さに絶望しつつ、特にある程度書き終わってから気づく不足部分、何か書くからには自分自身をエンライトしなければという強迫観念の強すぎるあまり、何も落ちが無い文章に意味を見出せずに筆を置くのは一旦やめにして、この何が言いたいのか分からないテキストを一旦上げようと思う。どういう形であれ、スパッと切り上げてアップすることに今は意味がある。
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